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エクリ詩の森の散歩道は3月1日にあります

3月の詩のエクリは散文詩について皆さんと考えてみたいと思います。現代詩年鑑2010をざっと眺めても詩の形式が散文形式で書かれた詩が大半を占めます。なぜ詩人は散文形式を選んでいるのでしょうか?最近の詩の特徴に暗喩とかの表現から、直喩のわかりやす比喩に変わってきたと言われます。それは作者のリアリティ関わる特徴でもあるように思います。 今回は山田兼二詩集『微光と煙』の中から二編を紹介します。ご存じのように山田兼二氏はボードレールの研究者で、大学で詩の添削をされてきた方です。ボードレールの『パリの憂鬱』は『悪の華』からみて少し地味な感じがしますが、散文詩について考えるうえで、歴史的にも重要な示唆を含んでいます。ここで、先に述べた詩人たちのリアリティの問題をボードレール研究(山田兼二訳)から考えてみたいと思います。以下は『パリの憂鬱』(この時はまだ小散文詩集と言っていた)の序文です。この序文から散文詩の迷走が始まったといわれています。 アルセーヌ・ウセーに(序文)  親しい友よ、貴兄に小さな作品を送りますが、これには尻尾も頭もないなどという人があれば、それは不当と言わざるを得ません。というのも、逆にここでは、すべてが、代わる代わる、互いに、頭であると同時に尻尾でもあるのですから。考えていただきたい、こうした配合が、我々すべてに、つまり、貴兄にも、私にも、読者にも、どれほど素晴らしい便宜をもたらすものであるかを。私は私の夢想を、貴兄は原稿を、読者は読書を、皆が好きなところで切ることができるのです。それというのも私が、読者の御しがたい意欲を、余計な話の筋などという際限のない糸につなぎとめたりはしないからです。椎骨を一本抜いてごらんなさい。この曲がりくねったファンテジーは、いったん二つに割れながら、わけなく元通りにつながるでしょう。これをまたいくつもの断片に切り刻んでごらんなさい。そうすれば、一つ一つの断片が離れたまま存在し得ることがわかるでしょう。これらの断片のいくつかが、貴兄の気に入り、貴兄を楽しませるほどに生き生きとしたものであることを願いつつ、この蛇をまるごと貴兄に献呈させていただく次第です。 貴兄に少々告白することがあります。少なくとも二十度目くらいでしょうか、アロイジュス・ベルトランの有名な『夜のガスパール』(貴兄にも、私にも、我々の友人の幾人かにも知られている書物ですから、有名と呼ばれる権利は十分にあるのではないでしょうか)を繙いていたときに、自分も何かこれと似たものを試みようという考え、彼が不思議なほど色彩ゆたかな昔の生活の描写に用いた手法を、現代生活の、あるいはむしろ、現代のより抽象的なひとつの生活の描写に応用してみようという考えが、頭に浮かんだのです。 我々のうちの誰が、野心に満ちた日々に、律動も脚韻もなく音楽的で、魂の抒情的運動にも夢想の波動にも意識の突発的揺動にも適応するほど、十分に柔軟で十分に対照の激しさを持った、詩的散文の奇跡というものを夢見なかったでしょうか。 この執念深い理想が生まれるのは、とりわけ巨大な都市というものと頻繁につきあうことからであり、都市の中での無数の関係の交錯からなのです。親しい友よ、貴兄もまた、「ガラス売り」の甲高い叫び声をひとつの唄に翻訳しようと、そして、この叫び声が街のどんなに厚い霧をも貫いて屋根裏部屋まで送り届ける物悲しい暗示のすべてを、抒情的散文に表現しようと、試みはしなかったでしょうか? しかし、実のところ、私は、自分の競争心が幸いをもたらさなかったのではないかと恐れています。仕事にかかるとすぐに、私は、不可思議かつ秀逸な先人の手本に遠く及ばないばかりでなく、奇妙に異なった何か(それが何かと呼びうるものとしてのことですが)を作っていることに気付きました。 それは、私以外の人間なら誰でもおそらく自慢するような偶然ではありますが、作ろうとしたものを正確に完成することを詩人の最大の栄誉とみなす人間としては、深く恥じ入らずにはいられません。 貴兄の心厚き友                            C.B. 〔解説〕  はじめ1861年に「ラ・プレス」紙の編集長アルセーヌ・ウセーに宛てて書かれた手紙を元に、1862年、連載開始にあたって掲載された「序文」。この時点ではまだ「パリの憂愁」の題はなく、全体は「小散文詩 Petits Poèmes en Prose」(つまり、散文の中の小さな詩)と呼ばれていた。その概要を箇条書きにしてみよう。 (1)散文詩とは、まず「小さな作品」であること。「大芸術」から「小芸術」へと時代の変遷を見抜く詩人晩年の芸術観が示されている。ミニマル・アートとしての散文詩。 (2)「曲がりくねったファンテジー」、つまり蛇行するテクストであること。韻文詩集『悪の華』の重厚な建築スタイルと反対の、柔構造設計による建造物(例えばプレハブ住宅のような)であること。 (3)「現代のより抽象的なひとつの生活」を描くこと。現代性と抽象性がキイワードとなる。 (4)音響性をすべて排した上でなお「音楽的」なイメージを描くこと。イメージの対位法がその方法的基軸となる。「柔軟 souple」であると共に「対照の激しさを持った heurté」表現形態が求められる。韻文では表現しきれない「意識の突発的揺動」をも表現し得るような「詩的散文」である。 (5)都市の詩であること。都市の中での無数の人間の交錯こそが散文詩のモチーフとなる。  以上をごく簡潔に要約するなら、小芸術、柔構造、現代性、音楽的イメージ、都市生活、ということになる。これらの要素を展開することが「散文詩」の実践になる、ということだ。 山田兼二訳と解説より
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