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江代充詩集『梢にて』を愉しむ


カフェ・エクリ
VOL.31  詩の森の散歩道
                                          高谷和幸
 
江代 充詩集『梢にて』を愉しむ
2000年7月25日初版  書肆山田刊


秋が深まり、空気が今までと違ってしっとりとしてきて、透明感が増したように思える。こんな季節になると読みたい詩集がある。この気分には江代充詩集『梢にて』が一番ぴったりと合致するだろう。また詩集というものは長い時間を読者と共にあり、読者の感受性に訴えながら、そういう読まれ方をするものかもしれない。

では、私は『梢にて』の何を読んで、何に静かな共感を得ているのだろう。何度かこの詩集を読んでいるので、これに書かれた意味を読んでいる訳ではないだろう。また作者のイメージのようなもの、つまり詩のなかに書かれた「わたし」を読んで、その「わたし」に共感しているというのにも少し違うように思う。

言葉の流れがあって、そこから築き上げられる空間のようなものを感動していると言えばいいのかも知れない。それは詩の全体の固定した構成からではなく、一行とかの部分的なフレーズがあって、それがまた次のフレーズに生み出していく(または反対に壊していく)ような動きのなかにあるのかも知れない。

この季節の空気は気温が下がり、体感できるぐらいにバイタルの低下(死へのヴェクトル)が見るものを情緒的にさせる。木々が色づいて、その変化にも情緒がまるで透明なもので覆っているように見える。劇的な変化なのだが、見る者が何か均一的な空間を作っている。

「梢にて」を読むと、木の枝があって、その頂から二つの鷺から俯瞰した光景から始まっている。しかしその鷺は、鳥でありながらぼんやりとかすみの向こうにいて、見る者の想像をかきたてる鳥である。鷺は「わたし」との境界にある「わたし」と「鷺」の二つが重ね合わさった、透明性のある鷺のように思える。

 かれらは道のうえの白いコサギを
 いわば単一に低められたものとしてながめたが

ここでは二つの鷺を「かれら」と指呼的な名詞で書かれることが特殊な意味を持っているように思う。鷺であって鷺でないもの、人であって人でないもの。この鷺は肩をすぼめた老人のようにも見える。つぎに、この鷺は親鳥なのだろうか、道の上のコサギを慈しみながら(または罰を与えるために)眺めているという図式が浮かび上がる。ここでもコサギはコサギであってコサギでないもの。つまりコサギであり人(人の子)であるような見え方には、よくわからないが宗教的な世界観を彷彿とさせるものがある。もちろんこのことは具体的に書かれている訳ではないので、言葉にサブミナル刺激を与える事柄である。つぎに。

 板塀のある
 わたり廊下の途中から梢のおくに色付き
 それまでは口にすることのなかった木箱の印象をいただけるのは
 そこから道へ出た
 ほかならぬわたしのなかに於てしかありえない

ここでは「わたり廊下の途中から梢のおくに色付き」が不思議な印象を与える。今までの言葉がつむぎだしたものと明らかに違う次元が持ち込まれている。なぜ「わたり廊下の途中から梢のおくに色付」くのかは文脈からは計り知れないのだが、特殊な見え方(二つの鷺が梢から下の道にいるコサギを眺めているところからくる、鷺であって鷺でない、人であって人でない作者の見え方)の自己を言及する方向に向かっているように思える。つまり「エクリチュールは作者になろうとする」のつまずきが梢のおくで色付いた状態(これもわたしである)と書かれているのではないだろうか。それにしても、つぎに「木箱の印象をいただける」についてはさらなる困難さにぶつかってしまう。板塀と木箱のあいだに何があるのだろう。

明示されている世界ではないから、まず私は板塀と木箱のあいだにについてこう思ったと言わなければならないだろう。それは外界をさえぎるように張り巡らされた板の材質感であり、しかもさえぎることを失敗したもので、それが「それまで口にすることのなかった」木箱というものの、木で建造した船をほうふつとさせるものにイメージ的なずらしが連続してあるのではないだろうか。

それと「いただける」という何者かの存在への畏怖する念を感じさせるフレーズと、そのあとに続くフレーズ「そこから道へ出た/ほかならぬわたしのなかに於いてしかありえない」という断定のきつい言い方が緊張感と、偶然の出来事を一つのフリーズした情景に変えて、薄い色彩で描かれた風景画の中に溶け込ませていて、それを事後的にながめているような静かな気分にさせるみごとなフレーズだと思う。

ここまで書いてきて、私は書くことの無力感というか、全身から力が抜けるような気持ちになる。詩に書かれた言葉を追跡することの無意味さに打ちのめされるようだ。詩にとって読解などを書くものではないのだろう。たとえカッコつきの私の誤解から始まったものであっても、許されるものではない。

私が「梢にて」を読んで得られるのは心地よさなのだ。静かな口調であり、紗が入った水彩画を見るような世界だと思う。落ち着いていて、内省的なところがある作者(作中のわたし)が読者に自分の小さな発見(作者の見間違いであるかもしれない)とよろび(意味を見出す思い込み)を示す、そのしぐさなのだと思う。つまり、そのしぐさとはエクリチュールなのだが、そのこと自体は感じることができてもそう簡単に言葉に換えて書けそうにもないものだ。エクリチュールは作者であるわたしの尻尾をつかみそうになる。その緊張は、ふたつの世界の均衡の危うさのようなものかもしれない。

エクリチュールについて寺山修司が触れている箇所があったので抜粋してみる。

 記憶したものを再生し、その痕跡の変容の中に「私」のアリバイを求めるのではなく、実際に起こらなかったこ とまで記憶し、あるいは記憶しなかったものまで再生し、個の記憶を合成し、編集し、その総合された結果とし て「私」を捉え直す。
 「私」というのは、原因でも動機でもなく、一つの『結果』なのだという思いこみと、レオン・トロッキーの
 「おまえは、ただの現在にすぎない」
 という歴史認識の裂け目からのみ、表現の現在は問われなければならぬのではないか。          
                               (寺山修司、偶然性のエクリチュールから)



百人の詩人がおれば百通りのエクリチュールがあるとも言われている。また文体だけに使われるのではなく、デザインのエクリチュールとか、直接に文字と関わらない分野で使われる言い方もある。そして、その言葉の歴史からは、ロラン・バルトから始まってデリダまで理解しなければならないだろう。私にはとてもかなわない。指摘するだけにとどめて以下に資料として添付する。さらに興味のある人はぜひ探究してもらいたい。



エクリチュールとは、言語芸術を成立させる核としての文章の“書き方”を意味する。人間精神が自然認識に向っていた百科事典的なラブレーの時代、ブルジョワ・イデオロギーの上に、コトバが秩序正しい社会の流通体として機能した快楽にみちたラシーヌやバルザックの古典主義時代、フローベール以降の古典主義崩壊時代とエクリチュールの変遷を大別することができよう。フローベールとともにコトバは作家の地平に現れ、ある文章体を選択することが作家の責任となる時代がはじまった。ゾラやモーパッサン、マラルメやランボーと、エクリチュールは古典主義の解体を跡づける受難の歴史を歩んだ後、ついに、言語の自律性と社会的道具性の中点(零点)にたつ乾いたエクリチュールがカミュとともに生れた、とバルトは言う。ヌーボー・ロマンの歴史的背景へのみごとな分析となっている。(ロラン・バルト著「エクリチュールの零度」 森本和夫・林好雄訳註 ちくま学芸文庫)




プラトンからフッサールに至る「現前の形而上学」は、意識に生き生きと現前するものを本質的で純粋な意味とみなして特権化し、その表現の純粋さを保証してくれるのは文字ではなく、ひとりごとのような声であると考えた。文字は意味の純粋さを不純にしてしまう危険をはらんでいるとみなされていたのである。それに対してデリダは、意識の自己同一性(アイデンティティ)に対して「差異」が先立っていること、この差異が自己への現前を「遅らせ」、現前性や現在の特権化を禁じていることを主張する。また、文字は声の純粋さを乱すような不純なものではなく、むしろエクリチュール(文字や書記行為)こそが、意味の発生を可能にしていると考える。差延は、意識の現前性を可能にすると同時に不可能にし、能動的でもあり受動的でもあるようなものとして、意識の純粋さに寄生しているのである。

デリダがこうした思想を生み出すに際して依拠しているのは、ソシュール、フロイト、ニーチェ、レビナス、ハイデッガーである。ソシュールの言語学をモデルとした構造主義は、意味がつねに他の意味との関係においてのみ価値をもつことを示し、同一性に対する差異の優位を説く。またフロイトは、無意識の事後性(幼時の体験の意味が抑圧され、成人になって遅れて意識されること)の概念を導入することによって、意味の発生が遅れや迂回によって可能になることを示す。ニーチェは、さまざまな力の差異が、意識を可能にしていると説く。レビナスは、他者が自己に先立って痕跡を残していることを主張し、それは「けっして現在でなかったような過去」に生起するものであるとする。普通、過去は「かつての現在」と考えられるが、けっしてそうした意味での現在ではなく、なおかつ未来に痕跡を残すようなものが「差延」なのである。最後にハイデッガーは、西欧の形而上学は、存在の意味を現前性と規定するギリシア以来の思想に支配されてきたとし、存在論的差異について思考する。こうした思想家たちの試みを批判的に受け継ぎながら、デリダは差延の思想を練り上げるのである。

差延の概念は、多くの新たな思考領域を開いた。まずデリダは、線状的な時間性をかき乱す差延の働きを、空間を時間化し、時間を空間化する「間隔化espacement」として主題化し、絵画論・建築論などに影響を与えた。また、文字は一つの技術でもあることから、差延の思想は今日のテクノロジーを新たに思考する道を開いた。テクノロジーとは生における差延のことである。テクノロジーは生命や身体を補足したり、代理したり、迂回させたりするものとして自己に本源的に寄生し、機械的な反復というかたちで死を持ち込むからである。最後に政治思想の領域では、差延の思想は、たとえばハバーマスのコミュニケーション行為論が理想化する、コンセンサス(合意)による相互理解に対して、誤解や無意味性の還元不可能性を説くものとなる。

この最後の点についてハバーマス的な立場を取る論者たちは、デリダの思想を直接の政治行動を避ける日和見(ひよりみ)的な待機主義ないしは近代の価値を破壊する相対主義的なニヒリズムとして批判した。これに反論するため1990年代以降のデリダは、差延の思考を責任の問題に結びつける。責任とは、けっして現前しないが、あらゆる予測を超えて到来するような他者に対して即座に応答するため、決定不可能性のただなかにおいて決定を下すことである。差延とは、こうしたほとんど不可能な決定の場と考えられるようになるのである。(日本大百科全書より差延から)


「梢にて」

おもてには木の枝の頂に
二つの鷺をのせてかさなる木の葉がしげり
かれらは道のうえの白いコサギを
いわば単一に低められたものとしてながめたが
板塀のある
わたり廊下の途中から梢のおくに色付き
それまでは口にすることのなかった木箱の印象をいただけるのは
そこから道へ出た
ほかならぬわたしのなかに於てしかありえない


「草かげの講座」

講座は草かげの古い翼棟でおこなわれ
わたしは初め
外部の風の吹く庭の窓から
狭い小部屋のなかに敷きつめられた
たくさんの小椅子の列をみた
昼間わたしのいるその草地には
枯れしおれた一つの房に
まだ白く小さな実をつける野生のあかい低木と
そこから遠く木をめぐらした庭の隅にも別棟がたち
いくつかの窓に黒い幌を降ろして
開講時刻を知らされていないまま
まだ見ぬ先生が
眠っていることをみんなが知っていた
鳩の出揃っている梢のあいだを
素朴なふたつの枝の周囲にまつわりつつ
その上空にわずかな大きさの
枝からは遠く隔たった鳥たちがゆっくりと移って行く


「御者」

きのう日の落ちぬうちに人と話すことができればと
歩きながら見知ったものを目のあたりにし
ところどころ茎の先に花の付いたちかくの道を
歩幅のある徒歩で行くことにきめていた

あたらしく揺れている当の具体物だが
地から間をおいた石垣の上に
あおい手摺りの横枠がながくつづき
草はそこから奥の方へ
途切れた視野のなかへと踏み込んでは消えている

その頃の予期しなかった期待どおり
ここからは裾の見えない一面の小さな白壁に過ぎないものが
奥まった草に代わり
わたしの見上げる目のなかにながく照らし出される


「異なる数の歌」

離れて見れば
その日もすべて巡り合ったよい事のようだった
ちかくの丸太には一羽ずつ
間を置いた小鳥の総数がひとりであるとすれば
それらはまるで離散した個人の着ぐるみのようで
日日の数にわたしの父や
日を浴びた小鳥の数を合わせれば
その度にひとつずつ
わたしの知識がうしなわれ
わたしはどこか雑然とした希望を感じさせる

誤らずには知ることのないその国に比して
これと似た円木の
いまは丸太の両端をささえている
吊り下げられた
この鋼鉄の枠組のなかへわたしがはいり
仕事すること
わずかに落ちた円木の木のかげの持ち主はだれだろう
左手に持たされた円い銅貨がそこで踊ると
わたしの奥にこだまを残し
手から落ちて
動く木のかげのなかに見失われてしまう


「午後の光」

鳥ゆるやかな一日だったが日が暮れ
 それをわたしは自分が踊るゆるやかな踊りに
 そっくり一致しているように初めて感じたかのようだ
鳥厚い峰のむこうへ太陽がはいると
わたしの片側には短い草がのぞき
青い葉かげに婚礼のひとびとが集まるかのよう
小径のなかに取り残されたものたちは
小径のなかでしか歌っていない
わたしの眼の対象でないものはまことに柔らかく無邪気にみえる
これを見ることの代わりに
あなたの名を明け渡すことがないようにと
鳥眼をとめた所はやがてみな静かになる
角を曲がればそのまま通りに出られるという一角が
手前広広とした敷地の庭をたたえたところだ
鳥同じ鳥であるのに
刳り貫かれた窓のちかくに
窓辺の石のように佇んでいるものは
そこから室内を飛びまわるわたしの姿に気付くことがない
竝んだ人人のなかへふたりの男が入ってきて
その場をささえ
もう一人の人間がそれに接してつき従い
ヨハネの首を
盆のうえから見守っている
偶然に手に入れたものでも
いつかは実の父親が現れるので
そのために何か具体的な事柄を
わたしから用意しておかなければならないと
わたしが飛び立った窓辺の石のあるところには
つがいを求めるわたしのこころも住む
空は晴れ
ひとりの動く友がいて
そこから戸外へ移ろうとしている


「係累」

日の傾くころ
皮膚の上にも明暗が生まれた
家の戸口にちかく
軒下の壁の一部にはま新しい
しろく灰色のツバメの巣が置かれている
家の前には石がころがり
戸口から奥へ拡がるべつの道には
近隣の人人とともにふたりの姉妹がいた
ちかくには弟のラザロ
ラザロはことばを持ちはじめ
人と事物と目の前の食卓とを繋げようとして
時折り小さな成功をおさめる
風が強かったので
戸外では太陽がどこにいるかをいつもよく見て
かげになったその場所を讃える鶏の声がきこえたが
口に物を入れ
そのたびに顔を物に近寄せて食事するラザロに代わり
初めから少し離れて食卓についていた一人の友が
かれの内心を占めた


「時のひろがり」

水の緑にちかく
対岸の岸の上にせり出した葉の繁みのあいだから
途切れた輪のように手をつなぎ合い
そこここへひろがりをみせる花模様を据えつけた
生え揃う同じ繁みの枝がうごいている
ながい池の橋を引き返し
みなが親しげに見上げているこの下へ近寄ると
幹の上に手をかさね
追い立てられた一匹の蛇をわたしたちは見上げたが
蛇は木のなかの細い枝にそっと被さり
触れられた棒の先から
すぐ上にある同じような木の枝に移ろうとして
そこから引き締ったちいさな頭部を
葉のなかへたかく持ち上げていた


『消失』Disappearances
ポール・オースター詩集     飯島友幸訳

「消失」



孤独から 彼はふたたびはじめる――

まるで息をするのも
これまでとでもいうように

それゆえに 今こそ

彼ははじめて息をする
異形のものの手の
とどかないところで。

彼は生きている それゆえに彼は
おのれの底知れぬ眼窩で溺れるもの以外の
なにものでもなく

彼の見るものは
彼でないもののすべて――判読不能の

できごとが起こる
都市

それゆえに 石の言語
なぜなら彼にはわかっているから
ひとつの石は
どこまでも
別の石に身をゆだね

壁を築いていくだろうということを

そして ここにある石のすべてが
ひとつひとつのものの
おそるべき総体を

形作っていくだろうということを。



それは壁。その壁は死。

判読不能なまでに
書き散らされた不満 生と
そのなごりに似せて――

そして まだ生まれてはいないものの
ここにいる多くのものと
語ることによって

おのれの生を享けるもの。

彼はこの場所の語りを知るだろう。
そして 黙(もだ)すことも知るだろう。

これは彼の郷愁なのだから――人間であることの。



おのれのことばに
続く沈黙を聞くこと。地を
かたどった

極小の石の
つぶやき 語ることでほかでもない
それらを

そして 彼はこの
空間で目にするものすべてを語り
それを目の前に聳えゆく
壁に告げるだろう――
そして そこにも声が聞こえるだろう
ただ 彼の声とはならないだろう。

たとえ 彼が話すとしても

そして 彼が話すがゆえに。



多くのものがある――しかもここに――

その中の石をひとつひとつ勘定するごとに
彼はおのれを排除する

まるで 自分でもはじめて
息をしようとするかのように

おのれをおのれからへだてる
空間で。

この壁はことばだから。そして 彼が
壁の中の石として勘定しない
ことばはない。

それゆえに 彼はまたもはじめる
そして息をはじめる瞬間ごとに

別の時などなかったのだと
感じる――まるで 彼の生きているときには
おのれでないものすべてに

おのれを見出すかもしれないかのように。

彼が呼吸するものは それゆえに
時間であり 今にして彼にわかるのは
もし生きるなら

それは現に生きているもののなかと
彼なしにこれから生き続けるもののなかだけ
ということ。

    (以下略)
 


次回のエクリ(詩の森の散歩道)は12月6日(月曜日)11時から
場所 龍野 アーツ&ティー ガレリア
テーマは特別に考えていません。今年の終わりに反省会を兼ねながら。








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