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カフェ・エクリ VOL.33  詩の森の散歩道 「蝿がいる」

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 聖なる空間は古代的な宗教体験の空間である。それはさまざまな方法で創られ、シンボルと聖なる中心、そして意味のある物体に満ちあふれている。
エドワード・レルフ「場所の現象学」より

詩/小説のフリー講座
2011/1.13  ブックカフェ されど(加古川)

「蠅がいる」

高谷和幸

 展覧会からずいぶん日にちが過ぎてしまった。Ryusanの個展「蠅がいる」は美術とことばの密接な関係をその内部にイコンのように刻印したものだった。展示空間に「空/There is a fly…」と書かれた文字通りのものをことばで知るために、私はいったん記憶のなかにそれらを死なせる必要があった。つまりは現れ、去ってゆくことばの実態を、何度か消し去り、再来することでそれを見つめる時間の問題系(何も書くことが出来ない)の中にいたように思う。
 ことばは過去のなかで死ぬことで生きている、そのことばの地平の上で生き残ったものを書き留めてみたい。それは、まずは自らのために終わりを語るという時間の虚構性(死に魅せられながらとりあえずは生きているという)ではないということ。根源的で具体的な、それは「死んだ」ものが表現されていたのだ。そこにあるのは神話のような大きな存在の死なのかも知れない。中心がぽっかり空いてしまった空虚な空間を、周縁のことばたちが惑星の周回軌道をめぐるように、運動エネルギーを保持しながら「美術とことば」の周りを飛び交っているという世界だった。
 絵画と詩の関係は、「絵は詩のように」と言われるように、現代までお互いの無いものに憧憬しつつ存在した。絵画はその表面の色素やマチエールが構成するものに単なる模写ではないもの、つまり詩情から視覚化したことばのイリュージョンを紛れ込ませてきた。そのことばとの関わりの有り様が「蠅がいる」の展覧会では変化していることに気付かされる。ここではことばの意味が押し広げられて、絵画の重要な要素に取って代わろうとしているようだ。画廊という空間が芸術の産出と供給の場であるならば、「蠅がいる」はそのシステムの価値創出を揺るがせている。産出が書くこと(エクリチュール)であり供給が読むこと(レクチュール)である空間は「画廊」のシステムを無意味に変えて、観覧者を自己言述のことばの世界に引き寄せている。この空間に……。
「蠅がいる」のだ。空中で動きを止めたり、斑に黒化した食べ物の上に正確に着地する強靭な4翅を持つ、どこか死と同衾するイメージの生き物を空間の内に見出すのは驚くべきものだった。世界のニュースの文字が無慚な死体が好きなように、この字形がそのまま生き物にでもなったかのように、この小動物は黒化したものを舐める。
 世界は黒化した死を死んでいる。この黒化した斑紋は菌類などの異種の生命を自らの組織に寄生させているのだ。世界は消滅する恐怖におびえているのではなく、温気に包まれた子宮でいままでとは異なった自分になること、完璧な消滅を待っている。蠅はその斑紋の上を儀式めいた仕草で這い、この精神の喪を舐める。
 蠅はファントム(Ryusanが表象の世界に見えない思念のイリュージョンを敷設したように)を見出す一つのアイコンでもある。それは一直線には飛ばない、ことばの海の中でいつも何かに迷い、ページを一枚、また一枚とめくるように飛翔する。そして表面に小さなドットを置くように蠅は静止する。
 蠅はこのように、観覧者のためのテーブルに、つまり大切な芸術のところから目立たず、思慮深くある離れたところで、その存在を気づかれることが無いように一枚のテキストが置かれてあった。それには「1997年11月17日(月)」と書かれていた。
  
------会期中はいつものように裕のマンションに宿泊させてもらい、朝彼等が仕事に出た後一時間ほどキーボードの練習をしてから、あたりの風景を楽しみながら画廊まで歩く。風景といっても山や海といった自然の景観ではなく、ビルや道路や車や人が産み出す動きなどであるが、あるいはそれらが触発する私の思考の風景(パノラマ)を楽しんでいるのかも知れない。ゆっくりとした足どりで20分もすれば画廊に着く。何か特別な事情がないかぎり、私が会場に入るのは11時前後になる。……

 これは日記なのだろうか。ある人物(もちろん濱田龍その人である)がこの日に、この場所に訪れる情景が書かれているが、その人間はある意味で死の世界にいる。ロラン・バルトが『明るい部屋』(みすず書房刊・1985年)で母親の写真から「写真の人物の死」を考察したように、日記の人物は死んでいるのだ。「零の感触」とでもいうべき、ひんやりとした霞のなかで彼は一日を目覚め、移動して、その日の出来事を考えている。それが書かれた時に、エクリチュールの世界で自らと決別したものが、その決意がよみがえってくるようだ。

……画廊空間に設置された作品と私の対峙から発するパノラマが展開する。部屋の隅にテーブルと椅子が置いてあり、壁を背もたれにしてそれに腰掛け作品を眺めながら多くのことを考えるが、その大方が次にどういった作品をつくり、そして発表するかという次への展開とその方向性の考察だ。それは数年先あるいはそれ以上先の発表を知らず知らずのうちに考慮に入れてなされる。いま眺めている作品を制作する時点ですでに何通りかのアイデアが浮かんで、そのときにメモをとったりしているが、そのアイデアを頭の中に呼び出してきては次への展開を考える助けにしている。だがもちろん、今発表している作品なり、今まで制作し発表してきた事に対する反省的思考ぬきにそれはなされないだろう。
 そういったことを中心に私の思考は深度を増減したり、あるいはぼやけたり鮮明になったりしながらパノラマを繰り広げる。窓のない壁にとだされた画廊空間ならではの思考風景。日常の煩雑なことどもに纏わるあまり良くない想像も、そこには入って来にくいのだ。……

 おそらくこの日記を書く前に、彼は照明があたる画廊空間のなかにいて、椅子に腰を下ろして考えていた瞬間が、その後のエクリチュールの、ひんやりとしたことばが漂う空気の中で自分がどうなったかは知らないはずだ。彼は自分のなかの何かを捨てていったのだ。ことばは過去に死ぬことで生きていると書いたが、そのことばの地平で、思念の流れは白布が風によじれるようにあり、出来事はシミや痣のようにその痕跡をとどめている。彼は書くという行為の中で、完全な死を夢見ているようだ。
 コーヒーは一口飲まれたあとに皿の上に残っている。チョコレートは封を切られてその瞬間のささやかな欲求を満足させてテーブルの上に置かれている。このように、また二重の意味でこのように、今回の展覧会「蠅がいる」はエクリチュールと重なり、「美術とことば」の混淆した世界を表出していたように思う。「蠅」はアポリアなのだ。完全な芸術の死をめぐり、飛び交うもの、それはRyusanの熾烈な生き様でもあるだろう。


追記。Ryusanの数年前の重篤な疾病を知る友人として、その後の新たな展開を見せる活動に敬意をもって書かせていただきました。ありがとう。


資料 会場に置かれたテキスト全文
1997年11月17日(月)
------会期中はいつものように裕のマンションに宿泊させてもらい、朝彼等が仕事に出た後一時間ほどキーボードの練習をしてから、あたりの風景を楽しみながら画廊まで歩く。風景といっても山や海といった自然の景観ではなく、ビルや道路や車や人が産み出す動きなどであるが、あるいはそれらが触発する私の思考の風景(パノラマ)を楽しんでいるのかも知れない。ゆっくりとした足どりで20分もすれば画廊に着く。何か特別な事情がないかぎり、私が会場に入るのは11時前後になる。ほとんどの場合、そのころにはもう開場前の床やトイレの掃除は終わっており、画廊の人は湯を沸かしたりしながら事務的な仕事に移ろうとしている。私が地下になる画廊への階段を降り、内部が見渡せる大きなガラスのはまった赤いドアを開けて中に入ると彼女がふりむき、「おはようございます」と気持ちの良い声がとんでくる。二言三言私が話しかけながらパイプに煙草をつめている時、彼女はそれに応えながら、搬入の時に姫路から持ってきてあるコーヒー豆とコーヒーメーカーで、美味しいコーヒーをたててくれる。画廊の人が2人の場合は3人分、となりの部屋で展覧会をしている作家が来ている時は4人分作る。そしてパイプ煙草とコーヒーの香りを味わっているあいだに、画廊に着く前から徐々に回転し始めている私の外を歩いている時の思考風景は完全に移行し、画廊空間に設置された作品と私の対峙から発するパノラマが展開する。部屋の隅にテーブルと椅子が置いてあり、壁を背もたれにしてそれに腰掛け作品を眺めながら多くのことを考えるが、その大方が次にどういった作品をつくり、そして発表するかという次への展開とその方向性の考察だ。それは数年先あるいはそれ以上先の発表を知らず知らずのうちに考慮に入れてなされる。いま眺めている作品を制作する時点ですでに何通りかのアイデアが浮かんで、そのときにメモをとったりしているが、そのアイデアを頭の中に呼び出してきては次への展開を考える助けにしている。だがもちろん、今発表している作品なり、今まで制作し発表してきた事に対する反省的思考ぬきにそれはなされないだろう。
 そういったことを中心に私の思考は深度を増減したり、あるいはぼやけたり鮮明になったりしながらパノラマを繰り広げる。窓のない壁にとだされた画廊空間ならではの思考風景。日常の煩雑なことどもに纏わるあまり良くない想像も、そこには入って来にくいのだ。
 私は午後7:00に画廊を出て、迎えに来てくれた弟の車に乗る。コーヒー、ビール、お茶をともにしながらその日画廊で話した友人、知人、そしてたまたま見に来た鑑賞者の言葉は画廊内における私の思考空間にはいってきて、それぞれの場所で明減することによって私の思考の展開の助けになったり、じゃまをしたりしながら、新な私の思考の風景を形成するもとになるのだろうが、気持ちの良い言葉、悪い言葉、よくわからないもの、場違いなもの、腹の立つもの、嬉しいもの------そういった言葉や作品を見る人の動作から感じることなどを含めて、精神的により良く昇華するように、それらを反芻しながら、弟のマンションに向かう。
 そういった濱田龍展の毎日を過ごして今回も無事に終わった。


季刊「びーくる」第9号より  (2010.10発行) 


課題詩
「デイスタンス」
大西隆志

数字を押していくのが苦痛でなくなっていく
左右に揺れて少しだけ飛びはねる
呼び出し音の向こう側の顔は知っていたり、知らなかったり
ぼくらはなにをしているのか
営業でもないし、選挙運動でもない
勧誘という歩行に躓いているわけではないが
柔らかい生活に突き刺された声は木片のように電話機の脇に置かれる
つながりとは伝言できないことをつたえたいと願うことですか
早朝は人生の習慣の道順をあきらかにしてくれる
健全なる通勤労働者は出入口にむかってベルトの一部となり
はだける街の臀部を覆っていく
階段には引っくり返ったもままのセミが
ぽつねんと置かれている
死んでいるのでゴミなのかもしれないが、もしかして宝石だったり
気にとめることはない
電話につながってはいない、呼び出し音は遠い昔の出来事ですか
どこからでもつながりたく思っている商品があります
一瞬のつたえたいことは
声を通して投げだされていたが
いまでは打たれた記号がアルジになりつつある
きみとぼくの間に置かれた箱には何が詰まっているのかね
つたえたいことはたくさんあるのに
どうも核心が整理される前に
あちらの矢印やこちらの矢印に寄り添ってしまう
どちらでもないあなぼこがあるのに、と声を出してみる
腹回りの贅肉をもてあますように
指先ではさんでみる
電話機もつまんでみる
電波の強弱は日々の溜息に似ているのか
世界が乾いているから一息で飛んでいってしまいそう
部屋に響く呼び出し音は
雲ひとつない青空を背景にした誰もいない浜辺に転送され
昼寝の時間にとどまっているようだ
薙ぎ倒された四隅の小枝
プリントされた紙片には言葉が記されていない
闘いはここから始まっている


次回は姫路・PEEPS(旧CHUM)です。
日時は2月7日(月曜日)4時から
「されど」で開くカフェ・エクリは4月7日(木曜日)4時から


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