fc2ブログ

カフェ・エクリvol.36 2011.4.7

2011paris.jpg

カフェ・エクリ  VOL.36


谷和幸

詩の森の散歩道

於ブックカフェ されど

動もなく脚韻もなくて充分に音楽的であり、魂の抒情的な運動にも、夢の波動にも、意識の 飛躍にも適するような、柔軟にして突兀たる詩的散文の奇蹟を、私たちのうちの一人として、青春の野望に満ちた日々において、夢見なかった者があるでしょうか。

 ボードレール「献辞」より



今回のカフェ・エクリほど私的なところでも、社会的な現象でも困難さをに包まれたものはありませんでした。三月十一日に東日本大震災が始まり、その十三日に後ろ髪を引かれるように初めての海外旅行(パリ行き)を敢行しました。旅先で出会った土産物売り場の人から、そして何気なく入ったカフェのご主人からも日本の未曽有の大災害にについて同情をしていただきました。「くじけないで、応援するから」と慰められたのです。でも本人にしてみれば、ニュースで流れる被災地の映像は見ればわかるのですが、何を伝えているのかフランス語が理解できないのでわかりません。また、同情をしてくれたフランス人は、日本と言う国からやってきて、故郷がぼろぼろになった可哀相な旅人の認識があるのですが、私は西日本に住んでいてるという状況が呑み込めないのです。私にとって失ったものは何だったのか? 彼らの表情から失ったものの大きさをくみ取るしかありませんでした。

 今回は古い付き合いの大西隆志さんに無理を聞いていただき、エクリのテーマにさせていただきます。エッセイ(詩の発見に掲載。号数は失念)「きみは詩人じゃない、詩そのものだ」と詩(びーくるに掲載)「詩を書く若い人へ」を収録しました。今詩を書くということはどういうことなのか? そのことの助言がこの二つに書かれています。




きみは詩人じゃない、詩そのものだ

大西 隆志


 最近のことだった。詩人と呼ばれることに慣れてしまっていたので、自分自身では詩人だと納得していた。確かに数冊の詩集とか出して、詩の公募の選者なんてやっているから、紹介される時は「詩人の○○さんです」とアナウンスされる。で、この最近のこととは、詩の言葉を格闘技としてパフォーマンスする「声と言葉のスポーツ」の予選会の一齣で、ぼくには不意打ちの如く聞こえてきた言葉が、「こいつらは詩人じゃないですよ」だった。この「声と言葉のスポーツ」コミッショナーのK氏の発言だった。この催しはH文学館主催で6回程続いているイベントで、全国大会への登竜門でもある地方大会の一つに数えられている。ぼくとTさんとかは裏方としてH文学館に関わってきたので、予選会においては持回りにより選考を担当してきた。もちろんコミッショナーのK氏の主導で進められているが、建前上は三人での合議によって予選通過者決めていくことになる。その予選会での、紹介というか、コメントのなかでの言葉だった。詩人と呼ばれることに慣れてしまっている自分自身の在り方を、批評の視線で意識して考える切っ掛けにもなった。断っておくが、K氏への批判とかではない。こう書くとプライドを傷つけられての笑止千万との謗りを受けそうだが、ぼくにとっては目を覚まされたことに感謝したい気持ちだ。Tさんも同じではないかと思っている。ぼくもTさんも二十代頃は、「あいつらの書いているのは詩じゃない」と言われてきたし、詩人と呼ばれることに恥ずかしさを感じてもいた。一応、社会人になっていたので、職場とかでは詩を書く人であることは秘密にしていた。詩を書いていますと吐露することが、カミングアウトしたような心持ちでもあるようだった。

 詩人って、どんな人なのだろう。ぼくは偏差値(当時はなかった言葉)の低い工業高校出身者で、地元の市役所に上手く滑り込むことの出来た人間だし、職業としての詩人なんて、頭から考えたこともない。原稿を書くことが苦手で、七転八倒で詩を書いているというのは嘘だけれども、それに近い有様であることには変わりない。最近なんかは、たまにしか詩を書いていないぐうたら親父になってしまっている。でも詩のことはいつも考えている。詩は精神の自立と自由な立場を守るためには、とってもいい指針になってくれる。詩人と呼ばれることが恥ずかしかったのは、権威の衣が所々に見えていたからかもしれない。それは純粋な文学行為でありながら得ることの少ない所業だから、宿痾のような詩の至上性への裏返しかもしれない。小説家のような華やかさもないし、短詩型文学のように裾野が広いわけでもない。経済的なことを考えれば、詩の師匠はなかなかに難しい。ぼくの好きな例外的な詩人もいるが、それらの方々は特別過ぎる。詩人は別の食い扶持を持ちながら、ゲリラやテロリストのような遊撃を繰り返す存在ではないか。職業的なゲリラやテロリストもいるが、本来は農民であり、僧侶であり、労働者ではなかったのか。ポピュラー音楽の始まりも、そのようなものだった。いまの時代のなかで面白い音楽はアマチュア音楽の裾野のなかから生まれてくるように思う。ぼくが影響を受けた十代から二十代にかけては、カウンターカルチャーと呼ばれた時代で、大人の価値観をひっくり返せのエネルギーに溢れていた。だから、詩においても今以上に多様性に富んでいて、何でもありだったように思っている。流行の中心の詩人たちはいたが、詩への入口は文学だけではなく、映画、演劇、音楽、美術と多岐にわたり錯綜しており、越境を可能にする幅広さをもっていたのではないか。それも、少しの年月だったのが惜しまれるが、飢えたように世界と対峙していた。ここまで書いて「声と言葉のスポーツ」の面白さも、この裾野の広いアマチュアリズムにあるように思える。K氏の先見性はこの辺にあるのではないか。だから、マンネリと固定化に対しての危機感は、ぼくら以上に感じているはずだ。

 ここで主題とどう繋がるのか分らないが、ぼくが詩らしきものを書き出したのは中校生の頃で、いまから35年以上も前の昭和40年代の中頃だった。その当時書いていた詩は、フォークソングの影響を受けた歌詞のような詩だ。中学生でフォークバンドを組んで、キングストン・トリオ、ブラザース・フォーなどを手本にしていたが、英語が上手く歌えないこともあり、ただのコピーだったら完璧再現の人たちがたくさんいたので、目立つためにも日本語で歌おうと詩を書き始めていた。深夜ラジオでよく流れていた関西フォークの影響もあり、それらは歌謡曲の歌詞にはないリアルな世界観があった。新たな発見や驚きが、いたるところにあった。それは誰もが内在させている詩そのものの在り方だった。詩人からは遠く離れているかもしれないが、詩は親しきものの姿であらわれてくる。




詩を書く若い人へ

大西 隆志


いまいる場所を記せ

紙切れがあればそれに書けつけよ

それをポケットに入れて忘れてしまえ

レジで支払をしたときのレシートは役に立つ

つねに筆記具は持参すべきだ

ポケットにダサく差し込んでいようが

ペンダントには青酸カリではなくインキが仕込んであるべきだ

書いて忘れる、文字は置き去りにされ

ひらめきが降ってきたり、目前を通り過ぎた言葉を記すのではなく

この場所の名前や、目についた看板を

サイズを合わせのために手にしたシャツの配置でもいい

彼、彼女の胸の内だったらとてもいい傾向だ

いまいる場所が少し見えなくなっているかもしれないが

勇気をもって書いて、忘れよう



セルフ・ポートレートを描け

時間はたっぷりあるはずだから慎重に

写真家や批評家には笑わせておけ

色彩に惑わされないで原色の好きな色を選べ

若くてもいい、老いていてもいい

夢見るような一瞬の眼差しには永遠がかくされている

ぼくを通したきみの視線は

死者の優しげな思い出から届いてくる

描き続けることで数百年は逆転する

特別なことはなくても、耳を、睫を、口を描け

産毛を照らす光の触覚は

こころのなかを描こうとすることより素敵ではないか

物をなぞって快感の一点を掴んでみよう



いまでない場所を思え

いまのここでないぼくらに良く似た人の気持ちを思え

それは簡単にはいかないだろ

だから学べ、耳を傾けよ、自分の足で確かめようか

つねに想像力を働かせていよう

もぎりたての果物の、片足が吹っ飛んだ大地で

息を引き取る前のベッドに臥している忘れた言葉と繋がっていく

指先に残る微かな記憶、詩に抱かれる時間かもしれない



ついでに現代詩手帖4月号に掲載した「光の船」を転載します。



光の船

谷和幸


ここに来るはずだった。しかし、この敷地内

はいかなる建築物も許されないものだ……。



ぼくは昼をまわっても目を閉じたままで、布

団のごとく捩れてもいた。毛布が触れる足の

指の、その根元に濡れるものが感じられて、

くの字に寝返りを打つ身体から、何かの拍子

に他の部分に水気を帯びるものが移ったりし

ても、別にそのままにいることが不快に思う

ことはなかった。ここに「痣(スカラー)」

ができたように思えて、湿ったものが放つ、

そこにだけあるちっぽけな領域を、集落とか、

だらだらとした丘や川が取り囲んでいくよう

だ。表面のギリギリまで「荒廃」が押し寄せ

ていた。そこには死んだ人の病んだ「息づ

き」もあるし、横たわるそれは、汚染したぼ

くという「躯体」でもあるのだし。……。



身の回りの空間。そっくりとそのまま移る

ものがある。「雲隠れした猟犬と雉鳥が鳴

いているのを聞いた」と語り、そう、あの

旅人がしきりと悔しがってみせる空(アー

ル)のように……。



扨て、ぼくはこの敷地で待っていたのだった。

閉じたものが、黄色いボールのように高々と

はずんでいる。その境界(ヴィジョン)。



――ぼくは斥力が漲る場に取り囲まれている。



あの日、閉館間際の展覧会に出かけたのは、

そっくり同じ封筒が二通届いたからだ。その

案内状の一つには「年明けからとりこんでい

ます」と書いてあった。見覚えのある癖字で、

丁寧に書き込まれた空間は「エッファタ(開

け)」とささやくようだった。あるいは、次

から次へと雪片が融ける敷地(あなたの《オ

ラル》)のように広がっていた。



――屋根が並んでいた。風が吹けば、ひそめた身の凍り

つく音がする。



古い名前。身振り(フィギュール)が織り

込まれてつくりだされた空間が、谷間のよ

うに口を開けている。「いま―ここ」とか、

「誰が―誰に」と言うべきなのかどうかよ

く分からない。「そこ」に川が掘られ、幾

基かの橋が架けられ、黒っぽい水がゆっく

りと流れだしていた。いくつもの落日が照

らし出した橋を、名前で呼ばれる境界へ、

「ぼくたち(アノマリーをそなえた一個の

精神)」は渡っていったのだった。歩道に

は、人間は炎のように立ちすくんでいた。



画廊に着くと、足の指にある「痣(スカラ

ー)」が蒸れるのが分かった。それは靴の奥

に閉じこめた空間にやってきて、つなぎ目が

でき、まわりに這いあがる。



……あなたの手を引いてそれを聞い

た。ぼくたちは、「エッファタ(開

け)」と言われたことを恥じた……



――空に黄色いボールがあがり、球面の一点に吸収された。



ぼくは外に出るには疲れすぎていた。着物

(手提げ紙袋のごとき)のことを考えるだけ

で億劫でもあるし、この中に入れるものなん

て何も無いんだし、ララング(走査光線にさ

らされる顔のごとき)がうっすらと浮かぶだ

けだろうし。嘗て、ぼくは駅の近くに住み、

心がけて携帯する荷物を纏めていた。鞄の寸

法と重さを暗記(そらん)じていた。



封筒(セフィロート)は開かれて、運ばれた

ことば(足の指の痣「スカラー」の、つまり

は光の船のごとく)は、ぼくに類似した記憶

の足どりを求めた。あなたの歩行を追いかけ

てゆき、そのまわりを這った。ここでは密集

しているが、あそこではごくまばらだったのだ。






プロフィール

sendasosuke

Author:sendasosuke
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード