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カフェ・エクリ VOL.37  詩の森の散歩道

オラルのざわめきが、つかの間のあいだ駆け巡る、
ある複数の身体。…中間省略…
それは、『声たちのための舞台』である。

ミシェル・ド・セルトー著 『日常的実践のポイエティーク』より
                                        
                                       高谷和幸


2011.313-3.21パリ写真 526


船渠(ドック)
寺岡良信

艤装は完了した
純白の翼に血のいろを通はせ
羽撃く船 紡がれる夜空の航跡よ
天空は今日も怒りと悲しみの響き
霧の濁りが身と心を奪ひ尽くさないうちに
星ばかりの国に着水すると告げた
母のささやかな命のゆゑに

母よ天空は怒りと
悲しみの響き
カリヨンが鳴り
星屑となつてあなたは舞ひ
時空を隔てた星冷えの底で
波は船渠の冬の眠りを食べにくる

天空はいつも怒りと悲しみの響き
氷結を拒んで海鴉は夜中眠らない―
さう想起した人の
僅かなまどろみに滑りこむ企み
船渠に棄てられた
禁漁の魚網の暗い疼きのゆゑに



今回のテーマは詩の音楽性です。
メランジュの誌友である寺岡良信氏(以後敬称略)にお願いして詩「船渠(ドック)」をテキストとして取り上げたいと思います。
もともと音楽性のある詩とは詩人自身の音楽への愛着の度合いであるように思います。寺岡さんは私の知る限りにおいて音楽が好きな詩人で、またご本人もハーモニカを奏でて愉しむタイプの詩人です。「船渠(ドック)」は新詩集に収蔵される予定の詩篇です。


詩は文芸の世界でもっとも音楽に近い芸術だろう。実は詩の音楽性につてのテーマで語るには壮大すぎて私の視野に収まりきれない。このことを考える手前でひるんでしまうのが実情である。そこで、まずは音楽について基本を抑えておおきたい。西洋音楽ではリズム(律動)メロディ(旋律)ハーモニー(和声)の三つの要素に分けて考えられる。これを詩に置き換えてみると、詩の内容と形式において徐々に高まりゆく記述、それを断ち切る文節、同じフレーズ・音韻の繰り返し、フレーズの変調、全体の構造的響き合いなどで感じ取られるものだろう。でもそれが音楽性を感受する、想像するところの説明にはならない。もともと音楽は先天的なものよりも後天的な要因を重視されてきた。つまりその音楽が好きか嫌いかの比較的明解な感受する領域があり、好きな音楽はさらに好きになる傾向がある。それは訓練によって音楽の感性と技巧がさらに磨きがかかるといった心理学的アプローチからみる音楽である。また一方で対象となる音楽性のリアリティにたどり着くまでに要する主観的時間遡及の0.5秒を脳内のどの回路で補うかを考える脳科学の世界もある。(このことは昔流行ったイントロ当てクイズを思い出すといい)つまり脳に到達するまでの、聞こえない音を脳内で補う働きである。また似たような話で、よく知られた音楽の旋律の一音を欠如させたものを被験者に聞かせたところ、欠けた音に対しても脳内ではその音を聞いたときに出る同じ反応が起こるというものがある。

もう一つ興味深い報告がある。失語症と失音楽症との関係で、昔から両症状は類似的な症状であると思われてきた。失語症の説明は省略するとして、失音楽症はあまり聞く言葉ではない。これはまさに音楽が失われるということで、今まで聞いたことのある楽曲が思い出せない、同調した音をだせない、楽譜の音を表現できないなどの症状が出る病気である。従来は失語を伴わない失音楽はないと言われてきた。ところが、失語をともなわない失音楽の症例が報告されている。

彼らの症例では、右半球の側頭葉の中央部、側頭極、島、前頭葉の一部、頭頂葉の一部に病変が認められました。この患者は、詳しい失語症の検査をおこなっても、臨床的に特に欠陥は見つかりませんでした。会話や復唱、事物の命名や記述は正確で、言葉の選択や文法もきちんとしていましました。しかし、音楽の認知が障害されており、非言語的な意味のある環境音の認知も障害されていました。また、別の症例では、音の弁別能力が正常なのに、メロディーの識別ができませんでした。
  
こうした症例とは逆の場合も報告されている。

モスクワ音楽学校の作曲の講座を担当するシバーリン教授は51歳のとき一時的な言語障害と右半身マヒの症状が出ましたが数日で回復しました。6年後、ふたたび言語障害と軽度の右半身マヒを起こし、言語障害が回復しないまま、3年6カ月後心筋梗塞で世を去りました。この3年半の間、彼には非常に強い言語障害がありました。彼は、単語の言い間違いが多く、言いはじめても最後まで話をつづけられませんでした。また、実際の物や絵を見せられても、その名前を正しく言うことができませんでした。さらに、言葉の理解力も悪く、自分でも「単語の意味がわからない」と訴えていました。こうした言語障害にもかかわらず、彼は活発な音楽活動をつづけ多くの作品を作曲し、学生の作品を聴いて批評し、訂正しました。作品の内容も、病気になる前に作曲された作品に劣るものではありませんでした。

つまり音楽と言語の関係は密接なものに変わりがないとしても、脳科学においては音楽と言語をつかさどる部位は隣接はしていても違うものであるということだ。これで私などは胸をなでおろすのである。子供のころから音楽は苦手だったので、詩を書く者の一人として、いつも自分の足らない音楽性が劣等感になっていたのである。これで詩と音楽の神話はひとまず壊すことが出来た。

さらに論文から引用すると。
音楽を、単なる「音」ではなく、また「言語」でもなく、「音楽」として認識する脳のメカニズムは、まだ詳しくわかっていない。それどころか、ヒトが周囲の雑多な音の中からどうやって声や音を分離して聞き分けているのかなど、聴覚認知の基本的なしくみすら未解明なことが多い。しかし、音楽と脳の関係について、以下のようないくつかの点は分かっている。

• 音楽に関係する脳:側頭葉を電気刺激すると音楽を体験するなどの報告から、一次聴覚野を含む側頭葉が関係していることは確かである。
• 音楽、とくにリズムと、身体を動かすことは関連している。
• 幼い頃から練習を始めた音楽家は、非音楽家とくらべて大脳の左右半球を結ぶ連絡路である「脳梁」の前部が大きい(Schlaugら、1995)。楽器の演奏に必要な両手の協調運動や、リズム・和音・情感・楽譜の視覚刺激などといった様々な情報を左右の皮質の各部位で処理し、密接に左右連絡しあうことが関係している可能性がある。
• 絶対音感:聴いた音の音階、基準になる音との比較なしに、努力せずに識別できる能力のことで、9~12歳程度を超えると身に付ける事ができないといわれている。アジア系の人には絶対音感の持ち主が多いと言われているが、これが遺伝的、文化的要因のいずれによるのかははっきりしない。また、絶対音感を持っている人と持っていない人では、音高を判断しているときに血流が増加する脳の部位が異なる。持っていない人では、音高を短期記憶として覚えることに関係する右前頭前野の活性が弱いのに対し、持っている人では記憶との照合をする、背外側前頭前野の活性が強かったという。また絶対音感保持者では側頭葉の左右非対称性(左>右)が強いという(Zattoreら、2003)。
• 音楽と数学の関係:中世ヨーロッパで一般教養として体系化された「自由七科」では、音楽は数学的な学問の一つとして数えられている。また、子供に音楽の練習をさせると数学の成績が伸びたという報告(Rauscherら、1997)もあり、音楽と数学の関連性を示唆する。

音楽の語源について
『呂氏春秋』(紀元前239年に完成)に既に「音楽」という表現がみられる。音楽の由来するものは遠し、度量に於いて生じ、太一に於いて本づく (『呂氏春秋』大楽)

漢語で「楽(ガク)」の字は、「謔」(ふざける)や「嗷」(大胆にうそぶく)などと発音が似ているため、「楽しむ」という概念に当てられるようになった


今回のまとめ

音楽性というテーマで詩を考える場合、詩と散文のちがいをまず明確にしなければならない。その大きな違いが韻律であることは間違いではないだろう。その韻律について、フォルマリズムの『詩的言語とはなにか』から日本語にも適応すると考えられるところを抜粋すると「力の強弱の段階的変化」ということになろうか。

ザランはこのように述べている。
すべての、あるいは大部分の要因の連合作用だけがリズムを作る。しかし諸要因が同一の方向に作用するとはかぎらない。いくつかの要因は対立することもあるが、それらは他の要因より効果のある作用によって相殺されることになる。このような場合(よくあることだが)、リズムの観念上の体系には多かれ少なかれあいまいな部分が残る。リズムを生み出す技術は、まさにこの対立する要因の微妙な使われかたのなかに存在している。

ところが現代詩はほとんどが自由詩である。しかも散文詩がその半数以上を占める状況であるが、Y・トゥイニャーノフの言葉は現代においても説得力がある。

自由詩とは韻律の統一体にに起こる「動態的準備の未解決」の原則を徹底的に利用した詩である。

「動態的準備」については。
韻律の前進、あるいは後退するリズムの特質は、韻律がリズムのもっとも重要な成分となる原因であり、選音のなかには後退的な側面しかないが、韻の概念は前進と後退の側面を含みながらも、韻律の系列の存在を前提としているのである。

さて寺岡詩「船渠(ドック)」にもどろう。
「船渠(ドック)」の全三連を通じて同じ語句が変化しながら語られる箇所がある。

「天空は今日も怒りと悲しみの響き」
「母よ天空は怒りと/悲しみ響き」
「天空はいつも怒りと悲しみの響き」

意味的には「天空は怒りと悲しみが響いている」ということなのだが、私が注意を喚起したいのは、この語句にこめられた情景の曖昧さなのだが、それは詩全体につながり主旋律のような役割をもちつつ、その語句じたいが海綿のように他者を引き込む働きがあることである。脳科学からみる音楽を思い出していただきたい。音楽は主体が感じる脳内にしか存在しない。その主体がかかわらなければ音楽性が生じないのである。民謡や地歌などの歌詞にたいして複数の主体がその歌詞自体の曖昧さ、不完全さに自らの情念を移し替えることで歌い継いできたように思う。その働きを「船渠(ドック)」の繰り返す語句に感じるのである。

最後の「禁漁の漁網の暗い疼きのゆゑに」で誰もが持ち得る罪意識でこの詩を終わるのも、投げかけと内省意識の中間の旋律として聞こえるのである。

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