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カフェ・エクリ  VOL.40 詩の森の散歩道 於 peeps

カフェ・エクリ  VOL.40

谷和幸

詩の森の散歩道

於 peeps



私はしばしば、変な言葉から詩作の機縁を与えられます。


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2 意味の揺れ



はじめに



まずタイトルの「意味の揺れ」って不思議な導入だと思います。

意味が揺れていると思う人はどれぐらいいるでしょうか?

ここでは普通に言葉が使われている状態から、不思議な言葉の〈揺れ〉を感じるところから始まります。この章は吉野弘の言語感覚、とりわけ詩人の感性を感じさせます。

私は詩人に二つのタイプがあるように思います。芸術家と詩人です。アンドレ・ジッドは前者「芸術家」の方で、フランシス・ジャムや吉野弘は「詩人」と一応私なりの区切りをつけてみたいと思います。ジャムはジッドを「水中の栓のように落ち着きのない」と言い、ジッドは「詩人であるためには彼の天分を信じなければならない。芸術家となるためにはそれを疑わねばならない。以下略」(日記から)と詩人の頑なさを非難します。この応酬こそがそれぞれの特性を物語っています。

でも実際には一人の詩人の中に「詩人」と「芸術家」があり、それらはジッドとジャムのように葛藤し、そのいさかいは詩を書きあげてもどちらかが沈黙、もしくは黙殺されたわけでもなく、傷のような痕跡を言葉の上にとどめているもののように思います。

それでは吉野弘の「意味の揺れ」のテキストから、「修辞的鋳掛屋」の詩を読んでみたいと思います。(方法としては間違っているかもしれませんが)



―――テキスト引用―――



私たちは普段、言葉を言葉として殊更意識するということがありません。 それは、言葉が意味の安全圏の範囲内で使われることが多いからで、もしそれが圏外に逸脱していると感じられた場合は、落ちつかない奇妙な印象を受け、その言葉を嫌悪したり、時にその意味を考え直してみることになります。               詩はそういう経験と深い関係があり、私はしばしば、変な言葉から詩作の機縁を与えられます。一つの例を挙げてみます。



「穴のあいた修理」

 

以前住んでいた団地でのことです。日曜日ごとに鋳掛屋さんが訪れ、拡声器で、こんなふうに触れ回るのです。

「洋傘の骨の折れた修理、土瓶の藤蔓巻きのゆるんだ修理、鍋釜の穴のあいた修理、なんでもお申しつけください。」

   「骨の折れた修理」「穴のあいた修理」という言葉の与えるイメージは、多分に超現実主義的イメージです。拡声器から響いてくる鋳掛屋さんの声までが、現実離れしているようで、キテレツとも何とも言いようがなく、私は頭をかかえたものです。穴のあいた鍋釜を修理したら、その穴はふさがらなければなりません。それが、「穴のあいた修理」ですから穴があきっぱなしで、しかもそれで修理ずみということになるのです。

     言うまでもなくこれは「穴のあいた鍋釜の修理」とすべきで、私は日曜日ごとに、鋳掛屋さんの語順を訂正しつづけたのですが、彼の言葉が発揮する映像喚起力は中々しぶとく強く、語順を入れ替えたぐらいでは、「穴のあいた修理」の残像呪縛から解放されません。やむなく私は「てにをは」を変え「穴のあいた鍋釜を修理」とやってみました。しかしそれでも、事情はあまり変らず、「穴のあいた修理」を受け入れるほかなくなりました。

  それは、この言葉の映像力のせいばかりではなく、私か、人間の心の傷ということを、一方で思い浮かべていたからです。時間が人の傷を癒すとは、よく言われるところです。しかし、はたしてそうか。おそらくそれは表面のことだけで、本当はいつまでも傷は傷のままなのではないかと思われます。もしそうだとしますと、時間の手で癒されるという心の傷の状態は、まさしく「穴のあいた修理」なのではないでしょうか。

  初めに「穴のあいた……」という言葉に出会ったとき、私はそれをイメージとしては受け入れながらも、言葉の秩序としては拒みました。しかし、人間の内面に、そのような修理に相当する心理的事実かあることに気付かないわけにゆきません。 もしこれが「骨の折れた洋傘の修理」「穴のあいた鍋釜の修理」という通常の触れこみだったら、この言葉の中から「骨の折れた修理」とか「穴のあいた修理」というイメージを引き出すことは、おそらくできなかったでしょうし、人の心の傷の回復状態にまで思い及ぶこともなかったでしょう。

  詩の表現は、しばしば異端の様相を呈するため、嫌悪されることが多いのですが、人が言葉を意識するのは、すじの通った言葉よりも、むしろ変な言葉である場合が多いことに注意を促したいのです。

私はここで、正しい表現とはどういうものかというような大層なことを論じるつもりはありませんが、用を足す、すじの通った言葉だけが正しい日本語なのではなく、一見すじの通らない表現の中に、思いの他のリアリティがあるという事実にも関心を寄せていただきたいのです。

  そしてこのことは、すじの通った表現に敏感なその度合に応じて、変な表現に含まれるもう一つのリアリティにも敏感であるということなのかもしれない――そう思います。

この奇妙な表現「穴のあいた修理」は、後に〈修辞的鋳掛屋〉という詩になりましたが、私の場合、こういう変な言葉との出会いが作詩の機縁になることが多く、おそらく私の詩の三分の一は、その種のもので占められているようです。

  さてしかし、こうした言葉との出会いが、うまい具合いに詩になるとは限りません。むしろ、すらりと書けないのが常だと言うほうがいいくらいで、時には、一年も二年も扱いかねている例かあります。

 

―――詩からの引用―――



『修辞的鋳掛屋』



わが団地村を訪れる鋳掛屋の口上。

「コウモリガサノ

 ホネノオレタシュウリ。

 ドビンノ

 トウヅルマキノユルンダシュウリ。

 ナベカマノ

 アナノアイタシュウリ。

 なんでもお申し付けください」



マイクを口に押し当てて

日曜ごとの訪問。

語順がおかしいので

私は日曜ごとに訂正する。

「鍋釜の穴のあいた修理」を

「穴のあいた鍋釜の修理」に。

もしくは「穴のあいた鍋釜の、修理」に。



しかし

語順訂正にも拘わらず

「穴のあいた修理」の残像呪縛は強い。

余儀なく「てにをは」を変え

「穴のあいた鍋釜を(・)修理」とする。



何度目の来訪だろう。

私は鍋に穴をあけ

鋳掛屋の鼻先へ突き出した。

「穴のあいた修理」を頼む――。



夕方、穴はきれいにふさがれて

鍋が戻ってきた。

「いらだっておいでのようですが――」

と鋳掛屋は微笑した。

「私は、夜毎、睡眠中のあなたを訪れていますが、

ご存知ないでしょう。

夜いっぱいかかって、人々の傷をふさぎ

朝、立ち去るのですが、私の手で傷が癒されたと思う人は、

先ず、いないようです。

それが傷というものでしょう。

ですから、正確に(穴のあいた修理)としか、

言いようがないのです」



――――――――――引用終わり――――――――――――――――――――



「穴のあいた修理」から私はまた変な連想をしてしまいます。

それはロラン・バルトの『明るい部屋』(写真についての覚書《花輪 光訳》)の中に出てくる「ストゥディウム」と「プンクトゥム」という言葉です。

 「ストゥディウム」は一般的関心のことで、気楽な欲望、種々雑多な興味、とりとめない好みのことで、それは好きの次元に属し、愛する次元に属さないものです。

「プンクトゥム」は細部であり、私を引き付け、突き刺すものです。ある意味で私自身を引き渡すものです。それは私の心のうちに非常な好意、いとおしさと言ってもよい感情を引き起こす。それは不作法であってもかまわない。それは多かれ少なかれ潜在的に、ある拡大の能力をもつ。この能力は往々にして換喩的に働く。





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つまり、一般教養的な「ストゥディウム」の部分と、言葉を自分のものにする時にどこか傷を負っている「プンクトゥム」が共存しているように思います。それが吉野弘が言う「意味のゆれ」る時には、「プンクトゥム」の突き刺さるものから強力に引き起こされる「ストゥディウム」的なものの引き攣りかもしれません。

それでは吉野弘の詩を何点か紹介します。





「生命は」


生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする

生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も  あるとき
誰かのための虻(あぶ)だったろう

あなたも  あるとき
私のための風だったかもしれない





「夕焼け」


いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりがすわった。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘はすわった。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
また立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘はすわった。
二度あることは と言うとおり
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
かわいそうに
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッとかんで
からだをこわばらせて――。
ぼくは電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
なぜって
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇をかんで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。







「早春のバスの中で」


まもなく母になりそうな若いひとが
膝の上で
白い小さな毛糸の靴下を編んでいる
まるで
彼女自身の繭(まゆ)の一部でも作っているように。
彼女にまだ残っている
少し甘やかな「娘」を
思い切りよく
きっぱりと
繭(まゆ)の内部に封じこめなければ
急いで自分を「母」へと完成させることが
できない
とでもいうように  無心に。





「妻に」


生まれることも
死ぬことも
人間への何かの遠い復讐かも知れない
と嵯峨さんはしたためた

確かに
それゆえ、男と女は
その復讐が永続するための
一組みの罠というほかない

私は、しかし
妻に重さがあると知って驚いた若い日の
甘美な困惑の中を今もさ迷う

多分、と私は思う
遠い復讐とは別の起源をもつ
遠い 餞(はなむ)けがあったのだと、そして

女の身体に託され、男の心に重さを加える
不可思議な慈しみのようなものを
眠っている妻の傍でもて余したりする





「奈々子に」


赤い林檎の頬をして
眠っている奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた。
お父さんにもちょっと酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんはお前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか。
お父さんははっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

自分があるとき
他人があり
世界がある。

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。

苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。





 動詞「ぶつかる」


ある朝
テレビの画面に
映し出された一人の娘さん
日本で最初の盲人電話交換手

その目は
外界を吸収できず
光を 明るく反映していた
何年か前に失明したという その目は

司会者が 通勤ぶりを紹介した
「出勤第一日目だけ お母さんに付き添ってもらい
そのあとは
ずっと一人で通勤してらっしゃるそうです」

「お勤めを始められて 今日で一ヶ月
すしづめ電車で片道小一時間・・・・・・」
そして聞いた
「朝夕の通勤は大変でしょう」

彼女が答えた
「ええ 大変は大変ですけれど
あっちこっちに ぶつかりながら歩きますから、
なんとか・・・・・・」

「ぶつかりながら・・・・・ですか?」と司会者
彼女は ほほえんだ
「ぶつかるものがあると
かえって安心なのです」

目の見える私は
ぶつからずに歩く
人や物を
避けるべき障害として

盲人の彼女は
ぶつかりながら歩く
ぶつかってくる人や物を
世界から差しのべられる荒っぽい好意として

路上のゴミ箱や
ボルトの突き出ているガードレールや
身体を乱暴にこすって過ぎるバッグや
坐りの悪い敷石やいらいらした車の警笛

それは むしろ
彼女を生き生きと緊張させるもの
したしい障害
存在の肌ざわり

ぶつかってくるものすべてに
自分を打ち当て
火打ち石のように爽やかに発火しながら
歩いてゆく彼女

人と物との間を
しめったマッチ棒みたいに
一度も発火せず
ただ 通り抜けてきた私

世界を避けることしか知らなかった私の
鼻先に
不意にあらわれて
したたかにぶつかってきた彼女

避けようもなく
もんどり打って尻もちついた私に
彼女は ささやいてくれたのだ
ぶつかりかた 世界の所有術を

動詞「ぶつかる」が
そこに いた
娘さんの姿をして
ほほえんで

彼女のまわりには
物たちが ひしめいていた
彼女の目配せ一つですぐにも唱い出しそうな
したしい聖歌隊のように









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