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寺岡良信御詩集『凱歌』出版記念会 およびカフェ・エクリVOL.44

寺岡良信御詩集『凱歌』出版記念会

『ヴォカリーズ』・『焚刑』に次ぐ待望の第三詩集の出版をお祝いし、播磨が好きだ言われる寺岡さんをご当地にお招きして細やかな宴を開きたいと存じます。
発起人大西隆志・高谷和幸

■日時:12月5日(月)午後6時より
■場所:大黒や ✆079-222-4439
■会費4000円
■連絡先 080-5311-6265(高谷)


daikokuya.jpg

「大黒や」をご存知ない方は「風羅堂」に5分前にお集り下さい。準備の都合がありますので、ご参加の方は12月2日までにこのメールで返信してください。
ご返事をいただいている方は必要がありません。

今回のカフェ・エクリは紅葉が美しい龍野のガレリアで開きます。出版記念会まで時間がありますので、プチ龍野ツアーなどを考えています。
JR姫新線 播磨新宮行き 10時24分発に乗ります。
乗り場に集合してください



カフェ・エクリ  VOL.44

谷和幸

詩の森の散歩道  於 ガレリア
 2011.12.05

自己自身を他者とするほかに、文学者としての誠実さをつらぬくことができなかったことに帰するのではないか。
                             吉野弘著『詩のすすめ』より


ecri 2011.12.05

「青春の健在」

高見順

電車が川崎駅にとまる
さわやかな朝に光のふりそそぐホームに
電車からどっと客が降りる
十月の
朝のラッシュアワー
ほかのホームも
ここで降りて学校へ行く中学生や
職場へ出勤する人々でいっぱいだ
むんむんと活気にあふれている
私はこのまま乗って行って病院にはいるのだ
ホームを急ぐ中学生たちはかっての私のように
昔ながらのかばんを肩からかけている
私の中学時代を見るおもいだ
私はこの川崎のコロンビア工場に
学校を出たてに一時つとめたことがある
私の若い日がなつかしくよみがえる
ホームを行く眠そうな青年たちよ
君らはかつての私だ
私の青春そのままの若者たちよ
私の青春がいまホームにあふれているのだ
私は君らに手をさしのべて握手したくなった
なつかしさだけではない
遅刻すまいとブリッジを駆けのぼって行く
若い労働者たちよ
さようなら
君たちともう二度と会えないだろう
私は病院へガンの手術を受けに行くのだ
こうした朝 君たちに会えたことはうれしい
見知らぬ君たちだが
君たちが元気なのがとてもうれしい
青春はいつも健在なのだ
さようなら
青春よ
青春はいつも元気だ
さようなら
私の青春よ


「帰る旅」


帰れるから
旅は楽しいのであり
旅の寂しさを楽しめるのも
わが家にいつかは戻れるからである
だから駅前のしょっからいラーメンがうまかったり
どこにもあるコケシの店をのぞいて
おみやげを探したりする

この旅は
自然へ帰る旅である
帰るところのある旅だから
楽しくなくてはならないのだ
もうじき土に戻れるのだ
おみやげを買わなくていいか
埴輪や明器(めいき)のような副葬品を

大地に帰る死を悲しんではいけない
肉体とともに精神も
わが家へ帰れるのである
ともすれば悲しみがちだった精神も
おだやかに地下で眠れるのである
ときにセミの幼虫に眠りを破られても
地上のそのはかない生命を思えば許せるのである

古人は人生をうたかたのごとしと言った
川を行く舟がえがくみなわを
人生に見た昔の歌人もいた
はかなさを彼らは悲しみながら
口に出して言う以上同時にそれを楽しんだにに違いない
私はこういう詩を書いて
はかない旅を楽しみたいのである


「不思議なサーカス」

病室へ来る見舞い客は
だれでも 口のところに口があり
鼻のところに鼻があり
眼のところに二つの眼がある
当たり前とはいえ不思議である
悲しみとのつきあいに私はあきた
当たり前すぎるつきあいがいやになった
そのためこんな当り前でないことを考えるのか
人間の顔はどうしてこうみんな当り前なのだ
眼が一つで口が二つの人間はいないのか

当り前でない死 あるいは殺人
不思議でない殺人 あるいは死が
今どこかで行われていることを考える
私のガンはそのいずれに属するか
私という人間が死ぬのに不思議はないが
私のガンは当り前でない殺人とも考えられる
私もさんざいろんなことをしてきたが殺人は
不思議でないそれも当り前でないそれもいずれもしていない
人を殺すことのできなかった私だから
むしろ不当に殺されねばならぬのか

私に人殺しはできぬ
しかし自分を殺すことはできそうだ
ほとんどあらゆることをしてきた私も
自殺だけはまだしていない
自殺の楽しみがまだ残されている
どういうふうに自殺したらいいか
あれこれ考える楽しみ
不思議な楽しみに私はいま熱中している
当り前でない楽しみだが
私にとって不思議でない楽しみだ

病室の窓にわたした綱に
悲しみが
ほし物バサミでつるされている
なんべんも洗濯された洗いざらしの悲しみが
ガーゼと一緒にゆれている
ガーゼよりももっと私の血を吸った悲しみ
私はいま手に入れたばかりの楽しみを
あの悲しみのように手離すことを
ここしばらくは決してすまい
それは手離しがたい楽しみだからでもある

あらゆることをしてきた私は
いろいろの楽しみの思い出がある
玉の井の女にほれてせっせと通ったのは二十いくつの時だったか
あれは今から思うと悲しみを買いに行ったようなものだ
楽しみと思っていたものがすべて
実は悲しみだったとも考えられる
今度こそほんとの楽しみだ
自殺を考えることが
悲しみでなくほんとの楽しみであるようにするために
不思議な自殺法をあれこれと考えよう

私の友人は何人かすでに自殺している
思想に破れ首つりをした友人小沢
私たちの心を暗くした悲惨な自殺だった
奇型みたいに頭でっかちの男だった
自分の独特な非凡さを誇るために
ひとのできない自殺をしてみせた友人久木村
軍人の息子でびっこだった
これは惨めな自殺でなかったとは言え
自殺の方法は独特ではなかった
独特でなくてもせめて不思議な方法はないか

窓ガラスをぶちこわし
黒いカラスの群を呼び入れようか
鞭を鳴らして実験用の犬どもを
サーカスの白い馬のように
窓をくぐらせこの部屋に闖入させようか
もはや鞭をして私自身を鞭打つことに使わせてはならぬ
狂乱の犬をぞくぞくと走りこませ
屍肉をついばむカラスと一緒に
私の自殺を一見関係がないような
不思議なサーカスをやらせたら面白いが

人生がすでに不思議なサーカスだ
人生のサーカスは誰の場合もすべて
不思議な人生でも当り前の人生でも死をもって閉じられる
そこにサーカスのような拍手はない
不思議な自殺で私は拍手をもとめようとしているのか
当り前でない死を自分でそうして慰めようとしているのか
耳が左右二つでもそれで人間の耳であるように
殺人といえどもその死はすべてひとつの当たり前の死なのだ
当り前の死になってしまう前に
せめて自殺の楽しみをひとりで楽しまねばならぬ



注 差別用語の言葉が含まれているが原文のまま記した。

ここから吉野弘著『詩のすすめ』からテキストを引用。
高見順の詩
 
高見順は、昭和十二年に書いたエッセイ「純文学と私小説」の中で、こう述べている。
「私小説を書く時のあのきびしい人間鍛練、自己修業までを私小説と一緒にうっちゃるのはどうか。(略)私小説というとすぐ浮んでくる自己鍛練をば、私小説を小説本道から追いやったと共にどうやら一緒に追いやろうとする弊が今日漸く著しくなったから、言い度いのである」と。
 おもしろい発言である。おもしろいというのは、高見順が四十歳を過ぎてから(昭和二十一年以後)書きはしめた詩について言いうる性質もまた、この「人間鍛練、自己修業」的性質であるからだ。伊藤整が、詩集『重量喪失』の跋文の中で述べているように「自己の生きる意識の追求と把握と再検討のようなことのくり返しが、高見順にとっての詩」であった。それは、たとえば「手拭は/乾くそばから/濡らされる/手拭は/濡れるそばから/乾かんとする」(「生」)というような短い寓意詩からさえ匂ってくるような人間くささである。以下にあげる高見順の詩のいくつかの特徴もまた「自己修業」的な姿勢につながるものである。
 まず第一に特徴的なこととしてあげねばならないのは、人間くさい風景ないし外界の描き方だろう。
 高見順が、風景ないし外界の事物を詩の素材にする場合、その対象を、自己から離れたものとして客観的に描写してすますということはほとんどない。必ずといっていいくらい、そこから、人間ないし人生の姿というものが、引き出されている。
 たとえば、こうである。
 「ひとすぢの本道/無数の横道/半日/それについて/考へた/横丁は/総じて/賑やかだった/路地といふものは/誘惑的であった」(「道」『樹木派』)
 路地そのものが描き出されているのではない。そっけない本道より、賑やかで秘密のかくされていそうな路地に誘惑される人間の心に興味が向けられている。
 「庭の新緑を/寝たまま/手鏡に映して/見てみようとしたら/空の光が映って/キラキラと眼を射つて/めまいがして/やめた/めまいには/ひどく教訓的な痛みがあった」(「試み」『樹木派』)
 これも同じように、描かれているのは光ではない。人間がまともに見つめることのできないあるものが人間の分際との比較で、とらえられている。読者は、こうした例を高見順の作品の中にいくっも数えることができるだろうが、このような詩作態度は、自然とか対象物の中に自己を埋没させてゆく態度とは、かなり異質なものである。おそらくは、虚心に対象物に入りこんでゆくのであろうが、そこから持ち帰るものは人生ないし人間の姿なのである。
 したがって、といえるだろうが、高見順によって描かれている風景は、ほとんど常に内部風景であり、それを傍証するかのように、「私の内部で」「私の心の中で」「私の中を」といったことばづかいが、かなり目につく。
 たとえば、こうである。
 「私の心から湧いた水」(「消えたがる」)
 「私の黄昏の風景のなかに」(「浚渫船」)
 「ふと呑みこんだ種子が/私の内部で発芽して」(「この盲目」)
 「蜜蜂のようなものが しきりと/私のなかを 出たり入ったりする」(「蜜蜂のようなものが」)
 これらは、詩集『わが埋葬』から任意に引いたものだが、「私の」という措辞は、ことさ
ら構えたというふうなものではない。それだけに、高見順の関心が外部にではなく、自分自身に向けられていることがいっそうはっきりとわかるのではなかろうか。
 次に、高見順の詩に見られる「天上思慕性」、これと対応してあらわれる「自虐的告白性」
にも注目する必要があるだろう。
 本文中に取り上げて鑑賞している「天の椅子」をはじめ、他の作品にも「天」ないし「空」
の用語が多く、そのいずれもが、人間の到達しえない世界を暗示している。
 これに対応してあらわれる「自虐的告白性」は、個人的な告白ばかりではなく、いわば天上生活者たるに値しない人間の人間性一般である。これは、初期よりむしろ晩年にかけて強烈さを増している。詩集『死の淵より』の含む戦慄の正体は、この告白性であろう。
 さて、いまひとつ、高見順の詩を考える上で、見のがすことのできない大きな特徴がある。それは他者を弾劾する詩がほとんど見当たらぬことである。せいぜい「おれをこの世にうえつけたやつ/父なる男とおれは会ったことがない」(「おれの食道に」)が、思い浮かぶぐらいだ。これはもしかすると、終生、人間修業的な香りを放ちつづけた高見順の詩の理解に重要な鍵を提供する事柄かもしれない。
 ひとつの推定を、ここに書いておきたい。高見順が私生児として生をうけたことは、周知のことであるが、この負い目を克服しようとした高見順が、後に転向体験を経たということ、これが、大きな意味をもつ。転向を体験する以前の高見順は、父に対し、また世間に対して、弾劾しうる優位性を有していた。父を拒絶することも許すことも、いわば高見順の胸ひとつにあった。しかし、転向体験は、高見からその優位性を奪ってしまった。父および自己を含めての人間と対峙するほかなくなった。自伝小説『わが胸の底のここには』が中断された事情もこのへんにあるのではないかと思うが、そのことは一応おくとして、高見順の詩の性質としてあげたいくつかのことは、つまるところ、自己自身を他者とするほかに、文学者としての誠実さをつらぬくことができなかったことに帰するのではないか。

天の椅子

空を見てゐると
一列の椅子の列がありありと見えてきた
点のやうな椅子からはじまって
目立たぬ程度にだんだんと大きく
遠くへ行くほど少しづつ大きく
今は無い儀仗兵のやうに凛々しく
また図形のやうに純粋で謙虚に
ずつと向うまでつらなつてゐる
同じ形のごくしつかりしたその椅子には
どれにも人は腰かけてゐないが
その椅子に似つかはしいどんな人も想像されない
 
これは、『樹木派』に収録されている作品であるが、「天」とか「空」とかいうことばに特別な意味をもたせ、それに人間界をこえた価値の尺度を見る傾向の強かった高見順の、ある精神的特質(宗教的ともいえる)が、鮮やかにあらわれている作品である。
 空を見ていると、ある高みに、一列に並んだ(おそらく一直線に並んだ)椅子が、はっきりと見えてきた。点のような椅子から始まり、目立たぬ程度にしだいに大きく、向こうまでつらなっている(「注」参照)。それは、今はもう見かけることもない儀仗兵の列のように、きりりと威風を放ち、くずれの全くない几帳面な図形のように純粋に、しかもつつましくつらなっている。同じ形に、ごくしっかりとつくられているこの椅子の列には、しかし、人は誰も腰かけてない。おそらくこの椅子は、人間が腰かけるようにはできていないのであろう。これは「天の椅子」であって、これにふさわしい、どのような人も想像することができない。 
この「天の椅子」のイメージは、清冽で鮮明である。これがもし一個の椅子だったら、この「天上的」な雰囲気は、さほど伴わないかもしれないが、おそらく、このイメージの原型は、空飛ぶ雁であろうが(小説『如何なる星の下に』の冒頭に雁を見上げている情景があり、〈ーー夢が遠くの空を飛んでいく。手のとどかない、捉えられない高さ〉ということばが見える)、列をなしてつらなっている椅子の、どの一つにも人が腰かけてないという情景は、いかにも、人間の世界とは隔絶した別の世界があるような効果を発揮している。
 この詩のリアリティは、どこに起因しているだろうか。ひとつは、異様なイメージの力であろうが、別に、それを支える精神的な根拠がある。それを考えてみよう。
 「人間に似つかわしくない椅子」という発想は、人間か神を生みだす発想と同じである。
 人間が神を生みだすことができるのは、人間の到達できない完璧性を想定することができるからであるが、この「完璧性」が人間の思考に先立って宇宙に実在する、という信仰をかりに認めると、その完璧性は神になる。人間はその神とのへだたりを絶対に埋めることのできないものであるとする考えは、そこからしぜんに導きだされる。
 もしこういう考え方が成り立てば「人間に似つかわしくない椅子」という発想も成り立つことになる。
 人間の卑小性に鋭敏な者は誰でも、潜在的に、この「天の椅子」を書く素地をもっているが、自己を糾弾することの激しかった高見順の場合は、とりわけふさわしいという気がする。
 次に引く詩「炎天」もまた、高見順の「天上思慕性」を思わせる作品なので、参考までにあげておこう。この作品は、後にふれる詩集『重量喪失』に収録されているもので、昭和二十三年七月七日の制作。生前は発表されなかったものである。

空に
演説会がある
真昼の正午
人間には聞へない声を
万物がしーんと聴いてゐる
どこかで
石が
音を立てて乾いてゐる

(注)「天の椅子」の情景についてちょっと気づいたことがあるので加えておく。「点のやうな椅子からはじまって/目立たぬ程度にだんだんと大きく/遠くへ行くほど少しづつ大きく/(三行省略)/ずつと向うまでつらなつてゐる」は、手前の椅子が小さく、空の奥へゆくほど大きくなると描かれている。これは「遠くにあるものが小さく、手前に近づくにしたがって大きくなる透視図」とは、ちょうど正反対の情景であることに注意。筆者ははじめ、空のある一点から、しだいに大きくなりながら手前に近づいてくる、と読もうとして、それが違うことに気づいた。つまり逆透視図風に描かれているわけである。

ガラス

ガラスが
すきとほるのは
それはガラスの性質であって
ガラスの働きではないが
性質がそのまゝ働きに成つてゐるのは
素晴らしいことだ
 
しゃれているばかりでなく、人間の在り方についての憧憬が含まれていて興味深い作品である。(「抒想系・樹木派前期」に収録)
 ガラスがすきとおるのは、ガラスの性質である。それはガラスの働きというものではない。ガラスにしぜんに備わっている性質である。しかし、しぜんに備わっている性質が、そのまま、ガラスの働きとして、無理のない役立ち方をしている。すばらしいことではないか。
 ガラスの透明なことを、性質と機能(働き)とにはっきり区別できるかどうか、議論のあるところだろう。しかし、ガラスを人間の在り方の比喩とみた場合、この区別は、やはり何気ない伏線として許容していいように思われる。
 今日の人間の社会では、人間の自然な性質が、無理なく社会的な有用性として通用することは少ない。むしろ稀とさえいえる。実状はどうか。社会的有用性が大きな顔をして強引に、人間の性質や才能を逆に規制し、ゆがめてさえいる。
 こうした、今日の社会についての作者の認識と、この詩とは無関係ではない。ガラスの場合のように、人間の自然な性質が世の中に、そのまますぐれた働きとして通用することができたら、どんなにいいだろう。そんな憧憬が、この詩にはある。

さういふ笑ひは僕には困る

さういふ笑ひは僕には困る
見知らぬ女の背から見知らぬ幼児が僕に笑ひかける
僕も笑ひ
僕は泣きさうになる
あんまりこの世にはさういふ笑ひが無さすぎるから
あんまりこの僕にはさういふ笑ひが恵まれなさすぎるから
さういふ笑ひは僕には困る
天使の微笑に他ならないのだから
さういふ笑ひはうれしすぎ
さういふ笑ひは僕を苦しめる
ここで僕が心のままにわぁわぁと泣きだすことができたならばいいんだが
泣いては幼児を泣かせてしまっていけないし
僕も人がいっぱいの電車の中では泣けもしないから
僕は笑ひつつ苦しくて困る
さういふ笑ひは僕には困る
 
独特な饒舌体だが、高見順らしいはにかみをたたえていて親しみ深い作品である。
 見知らぬ女の背から見知らぬ幼児が、私に笑いかけてきた。私も思わず笑い、しかし、なぜか不意に泣きそうになった。そうした笑いに、絶えて久しく出会ったことがなかったからだ。無償の笑いとでもいったらいいのだろうか。長く忘れ去っていた美しいものに、不意に引き合わされたような一瞬であった。考えてみると、そういう笑いは、この世に無さすぎる。私自身、そういう笑いに恵まれなさすぎる。だから、まぶしいばかりの、その笑顔に、どう応対したらいいのか、まごついて、ほとんど困惑を覚えてしまった。
 その笑いは、いってみれば天使の微笑そのものなので、私はうれしいという以上に、苦しみを覚えた。ここで、もしあたりかまわず、思いのまま声をあげて泣き出すことができれば、今の自分の気持ちをいちばん素直に表現することになるのだが、そんなことをして幼児を驚かせ泣かせてしまってはいけないし、たくさんの人がいるこの電車の中では、はた迷惑となろう、泣くわけにもゆかない。じっと耐えているのがとても苦しいのに、幼児はなおも無心に笑いかけてくる。困るのだ、そういう笑いは。そういう笑いは僕には困るのだ。
 難解な詩ではないから、特に解説を加える必要はないが、作品中、しばしば使われている「さういふ笑ひ」という表現には、ちょっと注意をはらっておくほうがよかろう。
 のっけから「さういふ笑ひは」ともちだし同じことばを七回もくり返している。同じことばをくり返すということは、作者がそのことばに、詩の主題を託したということであるが、「さういふ笑ひ」がどんな笑いなのかということについては、わずかに「天使の微笑」ということばがあるだけで、説明らしいものは見当たらない。
 このように、必ずしも意味の明確でないことばが作品中に大きなウェイトを占めているような場合、読者は作者の意図をどう推しはかるべきか。それを考えてみよう。
 「さういふ笑ひ」は、作者が説明しようとすれば説明できることばであろうか。それは、できるはずである。しかし厳密にいえば、できないというべきだろう。なぜか? 説明―それはできる。しかし、それをすると、直接的で端的な感動の原型がくずれてしまう。「さういふ笑ひ」としかいえない。むきだしの説明より、含蓄のある表現をえらぶ。
 もちろん、作者が読者の理解を顧慮せぬというのではない。作者は、自分の意図が読者に届くことを望んでいる。しかし最終的には自分の感情に忠実なことばをえらぶほかない。読者にとって必ずしも分明でないことばをえらぶことになってもである。そのため独断的な表現が生じることになっても、作者は、そのことばをひっさげて、読者の理解にいどむわけである。いわば一つの賭けであるが、そのような性質の賭けを、この「さういふ笑ひ」は帯びている。
 ところが、これを読者の側から見ると、そのような挑戦を作者から受けているということになろう。この挑戦に応じることが、いわば読者の楽しみであるが、もちろん、作者は意識的にそうした挑戦行為に出るのではない。表現行為自体の中に、捜し求めるという挑戦的な性質がはいってくるので、その結果としての作品にもおのずとそれが含まれる、そう解すべきだろう。
 さて、「さういふ笑ひ」とは、どんな笑いだろうか。筆者は鑑賞の中で「無償の笑い」と
述べたが、これをもう少しくだいて述べると、相手に自分自身を無条件に全面的に預けてしまう、そういう好意の表現、相手をえらばぬ無垢の信頼、そういうふうに解する。(われわれの笑いは、自分の都合や、相手への評価や互いの利害しだいで、なんと不自然なものになり下がっていることか)
 この詩の作者は、おそらく、こうした信頼に値せぬ自分を感じて困惑したのである。「私
はとうてい、君の全幅的な信頼の重量を支えきれる人間じゃありませんよ。それなのに君は、そうした私の弁明を聞き入れてくれそうもない。澄んだ目で笑いかけてくる。『さういふ笑ひは僕には困る』」というわけである。 

青春の健在

電車が川崎駅にとまる
さわやかな朝の光のふりそそぐホームに
電車からどっと客が降りる
十月の
朝のラッシュアワー
ほかのホームも
ここで降りて学校へ行く中学生や
職場へ出勤する人々でいっぱいだ
むんむんと活気にあふれている
私はこのまま乗って行って病院にはいるのだ
ホームを急ぐ中学生たちはかつての私のように
昔ながらのかばんを肩からかけている
私の中学時代を見るおもいだ
私はこの川崎のコロムビア工場に
学校を出たてに一時つとめたことがある
私の若い日の姿がなつかしくよみがえる
ホームを行く眠そうな青年だちよ
君らはかつての私だ
私の青春そのままの若者だちよ
私の青春がいまホームにあふれているのだ
私は君らに手をさしのべて握手したくなった
なつかしさだけではない
遅刻すまいとブリッジを駈けのぼって行く
若い労働者だちよ
さようなら
君だちともう二度と会えないだろう
私は病院ヘガンの手術を受けに行くのだ
こうした朝 君たちに会えたことはうれしい
見知らぬ君たちだが
君たちが元気なのがとてもうれしい
青春はいつも健在なのだ
さようなら
もう発車だ 死へともう出発だ
さようなら
青春よ
青春はいつも元気だ
さようなら
私の青春よ
 
このあとひきつづいて紹介する「みつめる」および「愚かな涙」とともに、詩集と同名のパート「死の淵より」のⅡ章に収められているが、この章の初めに、次のような著者のことばがしるされており、それが「青春の健在」および「みつめる」「愚かな涙」のことに若干ふれているので、その全文を引き写してみる。
 「ここの詩は(Ⅱ章の詩のこと。吉野注)入院直前および手術直前に属するもので、本当はIの前に掲げるべきものである(Iの作品は、手術後の病室でのメモをもとにしたものなので、時期の早いものを先にするとすれば、順序が前後しているから、こう述べているのである。吉野注)。それをなぜIの次にしたか、自分でもよくわからない。自分の気持としてそうしたかったからだが、詩のできがIのほうがいいと思えるのでそれをさきに見てもらいたいという虚栄心からかも知れぬ。『みつめる』『黒板』『小石』『愚かな涙』『望まない』などは当時ほとんど即興的に書き流したままの詩で、のちの手入れがほどこされていないので、発表のはばがられる稚拙と自分で気がさしているのかもしれぬ。『青春の健在』『電車の窓の外は』などは車中でのメモにもとづいて、のちに書いたものである。これは当時の偽らざる実感で、死の恐怖心が迫ってきたのはあとからのことである」
 これによると、Ⅱ章の作品は、I章の作品より出来がよくないとされている。そのⅡ章の中から、筆者が三篇を紹介するのは、ことさら、著者に異を立てるかのようだが、作品の出来不出来について作者はかなり目があやしくなるものだ。そこは鑑賞者まかせとゆくほかあるまい。
 さて「青春の健在」であるが、さわやかな作品だ。難解な語句はとこにもない。読まれるとおりの作品であるけれども、この中から、さわやかな風が送られてくるのは、生命の奔流に対する作者の敬虔さのせいであろう。
 死を予感している一人の人間か、健康な香りのむんむんする駅のホームで、青春に囲まれる。その時、彼らを見て「私の青春よ」と祝福することができるのは、単なる強がりや感傷のせいではない。
 絶えず新しい生命を再生させながら永続してゆく巨大な奔流、その中に自己の死を置いてみることのできる巨視的な生命観、そうしたもののせいである。もちろん、これは、ぎりぎりのところ、一人の人間の恐ろしい死を救うに足る観念ではないかもしれないが――。
 この詩には、そうした生命観が無意識に、やや甘美に背景をなしており、自身の感動に浸っているようなところが、ないわけではないが、それにもかかわらず、他者に対して開かれた自我、自他をつつむ生命の交替への敬虔さが底流していて、すがすがしい。
 なお、この詩の書かれたのは、年譜によると昭和三十八年十月五日の朝、千葉大学中山外科入院の車中のことらしい。同年十一月退院するが、翌三十九年七月、再手術。同年十二月、三度目の手術。翌四十年三月、四度目の手術を受け、八月十七日、他界している。凄絶の観がある。

みつめる

犬が飼主をみつめる
ひたむきな眼を思う
思うだけで
僕の眼に涙が浮ぶ
深夜の病室で
僕も眼をすえて
何かをみつめる
 
前述のとおりこの作品は、〈ほとんど即興的に書き流したままの詩〉ということであるが
心ひかれる作品である。
この詩集のほとんどの作品を通じ、作者は苦悩や恐れを、自身との距離を失して直接的にパセティックに語っている。それは、そういうものであるに違いない。誰が死を間近に感じながら、自己の感情に距離を置くことができよう。そうした感想をいだかせるこの詩集の作品の中でこれは、語らずにじっと耐えている。眼の光だけがある。ほかは全部、闇に没し去り、わずかに頬のあたりをかすかな光が浮き彫りしている。十分なイメージだ。
 飼主をみつめる犬の眼、ひたむきな眼。あの眼は飼主から、飼主のもっている以上の愛と憐欄をひき出す。
 飼犬が、死をかすかに予感しながら、救いを主に求めている。全幅の信頼を主に向けて。
飼主の取るに足りない力を救いの力と信じて――。主は己の無力を悲しみながら、犬の哀願する眼の中を見返している。
 詩人は今、こうした飼犬の位置にいる。深夜、眼をすえて、何かを見つめている。主をもったことのない私か、何かを見つめている。誰も私の死を救うことはできない。それなのに、私は、主を見つめる犬のように、何かをじっと見すえる。私の眼を見て、無力を恥じている主のようなお方が、どこかにいらっしゃるのだろうか。




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