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谷和幸 111
飛翔する小鳥たちのために……詩集『焚刑』を読む

朗読者の寺岡良信氏は誰もが認める一流の朗読のパフォーマーである。さる2月21日~22日に姫路文学館で第18回播磨文芸祭・川柳パフォーマンス公演『オイディプスの系譜 日本の赤 ギリシャの青』に桂 勘演出で彼は青の詩人として舞台に立った。アクロポリスを模して両脇から奥へ6本の円柱が立つ舞台の上に、彼の豊かな幅を持つ声質、旋律的な、リズム的な詩の朗読が響きわたった。朗読した詩は『焚刑』に収められた3番目の比較的長い詩篇から4~5作品だった。その時、私は彼の姿を舞台の後ろから見ていて気づいたのだが、構成語は変わらないにしてもわずかに違うイメージに変容しているように思えた。その「空間にある詩」は息のながれや声帯のふるえを内包して観客を充たしていた。詩は空間を侵食し、反響とともに空間を充満し、それともう一方で空間は詩の中に舞い戻り、その核となる詩人の命に染み込んでいくようだ。詩を朗読するのはその相互に溶け込む中間にある空間のことではないだろうか。少なくとも寺岡良信氏の詩の世界の大切な一部はそこにあるように思える。

『ヴオカリーズ』から始まって寺岡良信氏の詩世界は、その書体のマチエールの質量(私は視覚的な人間なのでこのような表現なるが、彼の詩質は音楽的なので、リズム、和音の塊の質感と言ったほうがいいかもしれない)が『焚刑』ではいよいよマテリアルになって、重金属のような官能美をかもし出している。水銀のように死の影をまとい、ころころとして、粉々に分離したかと思えば、融合して一つの新しい飴色の命を帯びる。修辞すること、それ自体が捕らわれている根深いところにあるアポリアとパラドクス。(神話を)破壊し、創造する永遠の繰り返し。

寺岡氏の詩のスタイルは現代的だと思う。近代詩の様式や旧仮名遣いを使っているが、彼が現代と向き合っていることに変わりがない。そもそも現代的というところに何かまちがった信仰があるように思う。古い電化製品は新しいものより劣るといった、科学だけが優等生だという風潮があるようだ。勿論それも正しいことだろうが、過去の文芸作品で現代にまで愛読され支持を受ける作家は必ずしも前衛的なスタンスであったとは言いがたい。ここで立原道造を想起してみたい。吉本隆明は「四季派」について「詩意識が現代社会からの逃避の一形式でありながら、しかし日本人の詩的想像の世界とのかかわり方においては、むしろ最も強固な地盤をほりあてた…」と書いている。「四季派」の詩は「自然」や「物象」をその対象に置いて、向き合う内面の伝統的な叙情を表現した。そのことが広く現代人の意識に共鳴したということだろうが、大岡信はその内に「滅び」への予感を見抜いている。四季派の代表的な詩人である立原道造にとって「最も強固な地盤」はしらべだった。寺岡氏はその詩脈をほりあてたのだと思う。そしてそのしらべは「滅び」の美意識を現代に照射している。「焚刑」を見てみると。

「焚刑」
季節はいつも菩提樹の葉擦れから/この森をゆき過ぎた/石の女神の心音がたそがれる/あなたの髪の香油の微光がたそがれる/あなたのみづうみを落照の色で凍らせ/わたくしの/愚かな贖罪を完結させやう
園丁の手斧の憂鬱な欲望よ
しぐれは霙を雑へて戻つてくる/魂が底冷えするほど/焚刑の/明日はつめたい

ここでは自然とわたしの関係が明瞭に意識化されている。抽象的とか観念的というのではなく、もしかして書かれている自然もあなたも本当にあるのかもしれない。しかし、たとえそれが実在のものであったとしてもここでは言葉の実在証明は詩意識の目指す方向にはない。光も闇もない世界。「ただ一面に影も光もない場所だったのである。人間はそこでは金属となり結晶質とのなり天使となり、生きたる者と死したる者の中間者として漂う」(立原道造より引用)それは中間にある自然であり中間にあるわたしなのだ。しかも自分の罪の意識に決着をつけ、その中間の世界から背を向けて自ら滅びようとしている。
ここで朗読者の寺岡良信氏に戻ろう。相互に溶け込む中間の空間を往来する詩は一方で宿命として消え去ることを自らに課す詩のことだ。そして中間の空間にある詩が現実を翻訳するのは耳の器官であり、その中間の空間を透してしか耳は聴くことができず、耳は見ることができない。

夕暮れを逃れゆく驟雨も/跳ね橋をくぐる引き潮も/市場の雑踏のあとに忽然とあらはれる/盛り場の女の嬌声も/いつも わたしには/この空隙を透してしか聴こえない
それはわたしの耳だ  
詩集『焚刑』の中の「車軸」より

どうだろうか。朗読する詩、つまり中間にある空間に現れては消えていく詩は、詩論のしらべという音楽性で共通性を持ち、文字表記の詩と重なり合っている。ほろびる美意識はそれを宿命として受け入れたときに自らの耳に刻まれた烙印なのだ。
最後に「小鳥たちのために」はジョン・ケージとダニエル・シャルルの対談集から引用した。意味は「名が余計なものに還る」すなわち沈黙に。5秒で消失する空隙を飛翔する小鳥たち(詩)のために。

谷和幸

飛翔する小鳥たちのために……詩集『焚刑』を読む

 

朗読者の寺岡良信氏は誰もが認める一流の朗読のパフォーマーである。さる221日~22日に姫路文学館で第18回播磨文芸祭・川柳パフォーマンス公演『オイディプスの系譜 日本の赤 ギリシャの青』に桂 勘演出で彼は青の詩人として舞台に立った。アクロポリスを模して両脇から奥へ6本の円柱が立つ舞台の上に、彼の豊かな幅を持つ声質、旋律的な、リズム的な詩の朗読が響きわたった。朗読した詩は『焚刑』に収められた3番目の比較的長い詩篇から4~5作品だった。その時、私は彼の姿を舞台の後ろから見ていて気づいたのだが、構成語は変わらないにしてもわずかに違うイメージに変容しているように思えた。その「空間にある詩」は息のながれや声帯のふるえを内包して観客を充たしていた。詩は空間を侵食し、反響とともに空間を充満し、それともう一方で空間は詩の中に舞い戻り、その核となる詩人の命に染み込んでいくようだ。詩を朗読するのはその相互に溶け込む中間にある空間のことではないだろうか。少なくとも寺岡良信氏の詩の世界の大切な一部はそこにあるように思える。

 

『ヴオカリーズ』から始まって寺岡良信氏の詩世界は、その書体のマチエールの質量(私は視覚的な人間なのでこのような表現なるが、彼の詩質は音楽的なので、リズム、和音の塊の質感と言ったほうがいいかもしれない)が『焚刑』ではいよいよマテリアルになって、重金属のような官能美をかもし出している。水銀のように死の影をまとい、ころころとして、粉々に分離したかと思えば、融合して一つの新しい飴色の命を帯びる。修辞すること、それ自体が捕らわれている根深いところにあるアポリアとパラドクス。(神話を)破壊し、創造する永遠の繰り返し。

 

寺岡氏の詩のスタイルは現代的だと思う。近代詩の様式や旧仮名遣いを使っているが、彼が現代と向き合っていることに変わりがない。そもそも現代的というところに何かまちがった信仰があるように思う。古い電化製品は新しいものより劣るといった、科学だけが優等生だという風潮があるようだ。勿論それも正しいことだろうが、過去の文芸作品で現代にまで愛読され支持を受ける作家は必ずしも前衛的なスタンスであったとは言いがたい。ここで立原道造を想起してみたい。吉本隆明は「四季派」について「詩意識が現代社会からの逃避の一形式でありながら、しかし日本人の詩的想像の世界とのかかわり方においては、むしろ最も強固な地盤をほりあてた…」と書いている。「四季派」の詩は「自然」や「物象」をその対象に置いて、向き合う内面の伝統的な叙情を表現した。そのことが広く現代人の意識に共鳴したということだろうが、大岡信はその内に「滅び」への予感を見抜いている。四季派の代表的な詩人である立原道造にとって「最も強固な地盤」はしらべだった。寺岡氏はその詩脈をほりあてたのだと思う。そしてそのしらべは「滅び」の美意識を現代に照射している。「焚刑」を見てみると。

 

「焚刑」

季節はいつも菩提樹の葉擦れから/この森をゆき過ぎた/石の女神の心音がたそがれる/あなたの髪の香油の微光がたそがれる/あなたのみづうみを落照の色で凍らせ/わたくしの/愚かな贖罪を完結させやう

園丁の手斧の憂鬱な欲望よ

しぐれは霙を雑へて戻つてくる/魂が底冷えするほど/焚刑の/明日はつめたい

 

ここでは自然とわたしの関係が明瞭に意識化されている。抽象的とか観念的というのではなく、もしかして書かれている自然もあなたも本当にあるのかもしれない。しかし、たとえそれが実在のものであったとしてもここでは言葉の実在証明は詩意識の目指す方向にはない。光も闇もない世界。「ただ一面に影も光もない場所だったのである。人間はそこでは金属となり結晶質とのなり天使となり、生きたる者と死したる者の中間者として漂う」(立原道造より引用)それは中間にある自然であり中間にあるわたしなのだ。しかも自分の罪の意識に決着をつけ、その中間の世界から背を向けて自ら滅びようとしている。

ここで朗読者の寺岡良信氏に戻ろう。相互に溶け込む中間の空間を往来する詩は一方で宿命として消え去ることを自らに課す詩のことだ。そして中間の空間にある詩が現実を翻訳するのは耳の器官であり、その中間の空間を透してしか耳は聴くことができず、耳は見ることができない。

 

夕暮れを逃れゆく驟雨も/跳ね橋をくぐる引き潮も/市場の雑踏のあとに忽然とあらはれる/盛り場の女の嬌声も/いつも わたしには/この空隙を透してしか聴こえない

それはわたしの耳だ  

詩集『焚刑』の中の「車軸」より

 

どうだろうか。朗読する詩、つまり中間にある空間に現れては消えていく詩は、詩論のしらべという音楽性で共通性を持ち、文字表記の詩と重なり合っている。ほろびる美意識はそれを宿命として受け入れたときに自らの耳に刻まれた烙印なのだ。

最後に「小鳥たちのために」はジョン・ケージとダニエル・シャルルの対談集から引用した。意味は「名が余計なものに還る」すなわち沈黙に。5秒で消失する空隙を飛翔する小鳥たち(詩)のために。

 

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