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カフェ・エクリ 詩の森の散歩道 VOL.34 私(主語としての私)とは……

荒木時彦詩集『sketches』 を読む                                  
                                             高谷和幸

私(主語としての私)とは、書いているあれのことか。
そうでありかつそうでない。

『聞こえない部屋』マルローの反美学 ジャン=フランソワ・リオタール著より


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荒木時彦詩集『sketches』(書肆山田刊)を読んで、私には気持ちのどこかに引っかかりながら、ミニマリズムを彷彿させるこの詩句に対してよく分からないところがあった。詩的な叙述を極力排除した三十三の断章からなる詩集に、見えないところで詩にたいする概念とか詩論がにこめられているようで、ただ私の読書体験から感想を述べるだけでは荒木時彦氏の意図と合わないような気がする。すれ違ってしまうのではないか、という疑念がたえず私を支配していた。そこですがるようにして、本書が捧げられているギルバート。ホワイトの『セルボーンの博物誌』を読んでみることにした。


『セルボーンの博物誌』の表紙の裏にあった短い解説から。



・・・・・・十八世紀後半、英京ロンドンの南西セルボーンに住んだギルバート・ホワイトは、敬神の念篤く、世に隠れ自然を友とする清廉な生涯を送った。深く草木動物を愛したホワイトは、美しい山野を歩き自らの眼で確かめた観察を達意の文で綴り、二人の著名な博物学者ペナントとバリントンに届けた。その書翰集こそ本書。ファーブル、ダーウィンを先導し、たとえ英国は滅びても本書は不朽と讃えられた名著。・・・・・・

とある。本書の中の解説では「ナチュラリストのための古典中の古典」(木村陽二郎)と書かれている。でもこれだけでは本詩集の意図が読みずらい。ぱらぱらと通読すると、その第三十八信にホワイトの詩が書かれているのに興味を持った。引用すると。
  「こだま――木(ニン)精(フ)のお喋り」


ふと見れば、親しき仲間の姿は見えず

オーイと若者の叫べば

オーイと応うは木霊

しばし黙し佇む

やがてまた

来れと叫べば

木霊は応う

来れと


これを読んだときに荒木時彦詩集『sketches』にある余白というか、空間が少し分かったような気がした。
詩集の帯文に

「私の傍らの深い穴から、いくつもの孤独な声がこだましてくる。

ある日の私の・・・昨日の隣人の・・・少しずつ少しずつ、幾重にもずれていく。」

とあるように、この詩集は「孤独な声」のこだまであり、私(この詩集は何人もの私の独白からなっている)の声ではなく、それを真似た誰かの声でもないし、こだまが返ってくるような洞窟のような空間が最も重要な詩のモチーフであるように思えた。

その空洞の空間は

「空間のかたちとしては、それぞれの〈場所〉がすべての世界を相互に包摂し映発し合う様式・・・・・・時間の形としては、それぞれの〈時〉がすべての過去と未来を、つまり永遠をその内に包む様式・・・・・・主体のかたちとしては、それぞれの〈私〉がすべての他者たちを相互に包摂し映発し合う、そのような世界のあり方」  (見田宗介)

のような意味での「傍らの大きな穴」ではないだろうか。

こだまはオーイと発声する主体と、こだまがオーイと呼びかけてくる存在との差異ではなく、この二つのものは常にお互いが重なり合い、お互いに一方が他方を汚染し合っているような、その位相の在り様のことだと思う。

このように「傍らの大きな穴」について一つの仮説を立てながら、荒木時彦詩集『sketches』を読んでみることにする。本詩集は散文体(極北の客観的文体)で書かれた三十三の未完の断章からなる散文詩集である。ここでのわたし(発話者)はどうやら三人いるらしいと確認できるのだが、先の「こだまの位相的空間」の中ではその三人も明確な存在者とは思えず、お互いに一方が他方を汚染し合う状態になる。とりあえず分類して特徴的な断章を紹介すると。

A。 熱病で目を悪くした、布を織る私(女性)。(高谷註)

夫の顔は忘れてしまった。多分、いま会っても夫だとわからないだろう。私は布を  売ったお金で、パンやジャガイモやニンジンを、ごくたまに鶏肉を買って食べている。
朝は隣人に分けてもらったヤギの乳を飲む。日曜日は教会に礼拝する。一番大切なものは健康だ。

B。 大工をしていて、右足を折った隣人(男性)。(高谷註)

私は大工をしていた。ある日、転落して右足を折った。私は仕事を失った。家に金を入れなくなったとたん、妻は私を家から追い出した。しかたなく私は、家をはなれ、誰のものかわからない納屋に住んだ。馬を飼いならし、土地を耕した。最近では鶏も飼っている。森でサクランボを摘んで、チェ リー酒をつくっている。たまに背中が痛む。そんなときにはチェリー酒を飲む。医者の薬よりよほどいい。

C。 Aの娘である。A,Bの二者を客観的に記述する存在。(高谷註)

娘を連れて母親の家を訪ねた。母はヤギを一頭屠ってふるまってくれた。母の隣人も同席してくれた。とても頼りになる友人らしく、娘を抱いてあやしてくれた。田舎でどうしているのかと心配だったが、よい友人がいることがわかって安心した。

この三者の存在と別というか、どちらかよく分からなくなった発話者(汚染された話者)の断章が存在する。例を挙げると。

人は私となる。幼い頃から育まれた私は、変わることがない。変わることができない。しかし、ある瞬間、たとえば風船が割れる音一つで、私がまったく違ったものとなることがある。
記憶と事実が違うことについて、現実的な問題がなければ、それはとりあえず置いておけばよいということだ。それは、問題の棚上げではなく、鷹揚さも時には必要だということだ。間違いがあれば、 友人が正してくれる。

私の生は与えられたものである。カエルのこどもの生もまた与えられたものである。

私は友人のために何ができるだろう。友人は私のために何ができるだろう。私の痛みを友人が担うことはできない。友人の痛みを私が担うこともできない。

これらの断章は、先のA,Bの明解な存在からの心情を吐露した部分「布を織らなければ、私に与えられるのは雨水だけだった」とか「友人も私も、もう死んでもおかしくない歳だろう」とか「人を忘れることも、人から忘れられることも、同じ気持ちにさせる」とか「いつ死んでもおかしくない」とかの宗教的な死生観と響き合いながら、いわゆる発話者が限りなく汚染され続ける声である。

その他に、紙面に対して一行で起立した記述(発話者とは別の存在からくるエクリチュール)がある。引用すると。


深い穴の傍らに私がいる。

ラッパの音がする。

ジャンヌ・ダルクの窓に、森が殺到する。

アライグマの勝ち。

これらのエクリチュールはまったく不明ながら、断章と断章の間をまるで均質空間をつなぐ接着剤ように存在する。この存在が一番不思議なのである。私が最初に読んだときに、ミニマリズムを感じたのはこの箇所なのだ。これらの書かれた意味は、その内包する意味とまったく同じ質量であり、言葉以上のものは存在しない。しかし、この言葉は読者の経験する時間と振動し合うようで、それだけを取り上げるならばまさしく「傍らの大きな穴」の存在であると思う。

このように本詩集は三つの要素を持つ断章群で構築された詩集だと思う。山田兼士氏がボードレールの散文詩論について、散文詩は断片化したユニットが無限に続くものであるというように、散文詩がもつ散文のわたし(発話者)から主体の汚染(こだまのように響き合う)に無限に変容を可能にすること、つまり散文的言語の主語としてのわたしの、その空間にある中空(void)のような働きを明らかに示しているのではないだろうか。

散文詩を書く詩人が多くなり、散文詩化が進むといわれる中で、荒木時彦詩集『sketches』は散文的言語のリテラルな地平を見せている。



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