FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

カフェ・エクリ VOL.38

カフェ・エクリ VOL.38
詩の森の散歩道                      谷和幸


今回のテーマ 「散文詩の音楽性」に分け入る

・・・動く「身ぶりの樹々」のざわめき・・・

ミシェルド・セルトーより



Brain2.png


「詩の音楽性」について前回のエクリの思考の大まかな流れをおさらいをしておきたい。
詩の音楽性はそれぞれの国の歴史的な音楽性に深く根ざしている。もともと古いフォルムを持つ詩には音楽性(韻律)を内在していた。それが自由詩(これが現在の詩である)に変貌を遂げた時に、従来の詩の音楽性を希求しつつ、絶えずそれを裏切ることで自由詩たらんとしている。
また音楽については、リズム・メロディ・ハーモニーのリアリティを主観的に認知するまでに0.5秒の空白の時間が存在すること、そのことについては脳が後天的な生活のなかで獲得した教養とか経験においてその時間を予測するというか、脳内に蓄積した音楽的経験で補っているといえる。たとえば二足歩行などで体内に刻むリズムであるとか、悲しいとき、嬉しいときなどに自然と喉のおくから出てくる声調などがそのデーターベースであり、アナロジーとしてその言葉に連結した音楽像を結ぶものではないだろうか。それは、絵画でいえば二つの同じぐらいの黒い滲点があれば、それを顔の一部の眼として認識するような脳内の強力かつ生命的な作業である。
音楽はテキストにあるのではなく脳内で抽象されたり、変成したものであるといえそうだ。
従来の韻律のある詩に対して自由詩は表記上には恣意的な行あけ、ことばの途切れた箇所、挿入する表記上の記号が休符のような働きがあるように思う。また、テキストの意味の流れから作中の(わたし)の感情の高まり、低く内省的になる個所、意味の流れが移行したり、転化するアクティブなものに読者は音楽性を感じるのではないだろうか。
また作中の語の一部に音楽的な記述がある場合とか、その作者を知っているかで、そのことがテキストとは関係なく全体の雰囲気に音楽性を少なからず寄与することも考えられるが、具体的な例をいまだに提出できないでいる。

それでは今回のテーマである「散文詩の音楽性」に話を進めてみよう。もちろん散文詩は自由詩から派生したものであるから、基本的な自由詩の音楽性を希求しながら音楽性を絶えず裏切り続けるという存在論的な出自を持っていて、そのことがいわゆる散文とは音楽性において明らかに区別するものだと考える。では散文詩の音楽性はどのようなものだろうか。
散文詩は徹底してオラルの働きに音楽性を求めようとしているように思える。それはお話をする唇、口内の舌の動き、息継ぎのためのしばしの休止、相手の反応を引き出すような繰り返しと投げかけである。そしておはなしは自分さえもそのおはなしの時間性のなかに閉じ込めていく。ハイデッカーによれば、
「時間性はいかなる脱自態においても全体的に時熟するのである。すなわち、時間性のそのつどの全き時熟の脱自的統一態に、実存と事実性と頽落の構造全体の全体性が―ーすなわち関心の構造の統一性がーーもとづいているのである。」
さらにおはなしの時間性で使われるおもしろい用語が出てきたので紹介する。
「既往性……(反復もしくは忘却)において自熟する。」
「頽落性……現在(現持もしくは瞬間)に根ざし」
「了解性……いつも「既往しつつある」現在である」

正直に言えば興味をそそるが私にはよく分からない。これらについてご存知の方にご教授をお願いしたいと思う。
存在論的? このことばはよく分からないから便利なことばだ。わたしなりにこれをパフォーマティブに置き換えて考えてみることにする。おはなしをする時間性の特徴的な箇所は、その全体性においてオラルから発して、適時的に相手も含みつつわたしのオラルにもどり、その往還する動きの統一性(オラルの)にあるというオラルのパフォーマティブな要素だろうか。ここでオラルとは何か?
それはつぶやき・ささやき・おしゃべり・もう一つ加えるならば宣言のパターンに部類されそうだ。それらを一括して「オラルのおはなし」とするならば、あしどりとか歩行の身振りがそれの特徴的な見え方にあるように思える。
つまり散文詩の音楽性は「オラルのおはなし」のパフォーマティブな要素である「おはなしのあり方」にあり、そのいわば「オラルのおはなし」のあしどりが詩の音楽性への希求しつつ絶えず裏切りをする要素になっているように思う。そのことが散文詩と散文との著しく一線を画する部分であると言えよう。
足どりは話しているのである。自分の「話す」道筋(軌道)を断言したり、疑ってみたり、たまたま口にしただけのものだったり、ルールを踏み外してみたり、きちんと守ってみたりしている。その歩行というレトリックについてJ・F・オゴヤールは「ことばの彩(フィギュール)と歩行のフィギュールとの間には相同性がある」と指摘する。そのフィギュールについては「日常的表現の現代的技法(アール)は基本として、すなわち提喩と連結辞省略」と記している。説明すると、提喩とは語をその意味の一部分で代表させてもう一つの意味に使うことである。使用例として、ごくなじみの顔なのだけど、その後どうしているのか音沙汰がない。この場合の「顔」の使用がそれにあたる。また、連辞的省略とは、文中または文と文のあいだで、接続詞や副詞といった連結語を省略することである。つまり人の歩行というものは、たどっていく空間を選んでいるし、空間を細分化している。つながった空間をスキップしてとばしてゆくし、いろんな場所をそっくり飛ばしたりするものなのだということだ。
さて今回は散文詩の金井雄二「父のこめかみ」、平田俊子「か」、海埜今日子「鏡を曲がる空に高く」、辺見庸「善魔論」、高柳誠「光うち震える岸へ(抄)」の五つの詩を選んだ。別にたいした意図はないが、それぞれテーマも違うし、技法も異なるが「オラルのおはなし」として鑑賞してみてください。散文とは違った散文詩の音楽性が見えてくるはずです。


父のこめかみ
金井雄二

父がごはんを食べると、父のこめかみはリズムよく、ふく
らんだりとびはねるようにして動いた。ぼくはいつもそれ
を見ているのが好きだった。というよりは、どうして父の
眼の上は、ものを食べると動くのだろうかと思っていたの
だ。正確には眼の上ではなくて、眼の斜め上の部分で、そ
れは頭と顔とをつないでいるほんの小さな隙間なのだけれ
ど。父のこめかみが動くたびに、運動は激しいくらいに美
しく、人間がここに生きているということを証明してくれ
た。ここにあるものは細い血の管であると思っていた。も
のを口の中に入れたときに、上下運動をおこすため、どう
しても動いてしまう部分なのだけれども。それは血を送り
とどけるための大切な部分で、つまり血が通っている管な
のだと思っていた。それをいつまでもじっとみているとな
んだかぼくは、ぼくがぼくでなくなるような気がしてきて
とても気分が悪くなってくる。ぼくはたぶんこの人の子ど
もで、ぼくの身体の中にある血の管の中に流れているもの
は、この人と同じ血があるのだ。そう思うとなんだか不思
議でぼくはますます気分が悪くなってくる。つまりぼくの
こめかみにも父と同じような血が出たり入ったりしている
ので、きっと眼の斜め上と頭との境にある短い血の管はど
こまでいっても父と同じもののようでもあり、ぼくはそれ 
を考えると青い空のように絶望した。父はよく血を流し
た。それもお尻から。人知れず、痛みの底から我をしぼり
だしてきたのである。流された血は、便器の白さに混ざっ
ていったいどこまで行ったのであろうか。これは笑い事で
はなく、父の血はしっかりと息子のぼくにまで流れたどり
着いていて、ぼくは先日、真っ白な便器の中において、父
と同じような血をみることになったのである。この鮮烈な
る紅は、父とぼくの、切っても切れない橋渡しをしている
に違いない。鏡のなかのぼくを見る。しかしぼくはすでに
そこにはいない。いるのは老いた父の顔だ。皺がより、顔
の色が黒く変色し、髪は白髪になり、だが口を動かすたび
に、眼の斜め上にあるこめかみは一定のリズムを刻んでい
るのだ。ものを食べるとき、ぼくもこめかみがドクッドク
ッと高鳴っているのだろう。胸がきしむのと同じように、
こめかみが膨らんではちぢみ、とびはねるように動きだす
のだろう。いつまでも、いつまでも、嗚呼とうめき声をあ
げながら、ぼくは血を見るのだろう。どこまでも続く異国
の砂浜で、過去の血が鳴るのだろう。



平田俊子

あの、きょうはまだ七月ですよね。きのうも七月。あした
も七月。いつまで七月が続くんでしょう。
シチガツっていいにくくないですか。いいにくいですよ
ね。いいにくいんです。
ガツには罪はありません。ガツはすらすらいえるんです。
でもシチ、シチがうまくいえない。シとチが並ぶと舌がも
つれる。シチ、シチ、シチ、シチ……。ほら、もつれた。
あいだに小さいッが入ると楽になります。シッチタイ。シ
ッチャカメッチャカ。ほら、いえる。七月もシッチガッと
いえばいいのでしょうか。シッチガッ十日、シッチガッ十
一日。
でも、シッて一体何でしょう。秘密の話をしているとき
に、あたりに人の気配がすると、お母さん指を口にあてて
シッといいますよね。お父さん指や赤ちゃん指でもよさそ
うなのに、いつもお母さん指が使われる。あのときのシッ
は何でしょう。音ですか。言葉ですか。どうしてシッが、
静かにしろの意味になるんでしょう。シッは静かにしろの
省略形ですか。
道を歩いているとき、ドーベルマンが迫ってきたら、思わ
ずシッといいますよね。静かにしろといっているのではな
く、あっちにいけと追い払う。同じシッでも二通りの意味
があります。秘密の話をしているときにシッというと、い
われた人は犬になってどこかへいってしまわないでしょう
か。
シッ。シッ。シッ。シッ。わたしは詩ッを書きます。シッ
チガッにシッチタイで詩を書きます。詩ッ書くと、犬
がどこかにいったり、あたりが静かになったりします。
七月十目。シッチガッツトッカ。シーチガーツトーカ。

このカも不思議な言葉です。たった一文字、おしりにくっつ
けるだげで、平叙文が疑問文に化けてしまいます。化けて
しまいます、か。化けてしまいます。たった一匹、お尻に
蚊がとまるだけで、日本語が化けてしまうのです。
羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹、羊の数をかぞ
えると眠くなるといいますが、蚊が一匹、蚊が二匹、蚊が
三匹、加賀百万石、蚊が百万匹もまとわりついたら、眠る
どころじゃなくなります。なくなります、か。なくなりま
す。
ここは浅草、少しいけば本所。本所は、もとはほんじょう
といって、昔は蚊の名所だったそうです。「本所に蚊がい
なくなりや大晦日」なんて川柳もあったりして。夏にも秋
にも本所に蚊はいた。大晦日までずっといた。大晦日って
蚊の仲間みたいですよね。コガタアカイエカとか、ハマダ
ラカの仲間。味噌のような色をした大きな蚊、それかオオ
ミソカなんですね。

蚊という漢字は、虫偏に、文学の文と書きますよね。蚊は
文学に興味があるので、虫偏に文と書くのです。書くので
す、か。書くのです。
と思ったら違いました。蚊は、ぶうんと飛ぶから虫偏に
文。
それならカナブンの立場はどうなるのでしょう。カナブン
だってぶうんと飛びます。蚊よりカナブンのほうがぶうん
と飛んでる。蚊はぶうんというよりぷうんと飛んでる。濁
音ではなく半濁音。虫偏に文は蚊ではなく、カナブンと読
むのが正しいです。正しいのです、か。正しいのです。

七月が終わると八月がきます。ハチのつく月にはミツバチ
が飛びます。スズメバチが飛びます。クマンバチが飛びま
す。飛びます、か。飛びます、蚊。飛びます、蛾。
飛びます、大晦日。飛びます、本所。
飛びます、ドーべルマソ。飛びます、シッチガツ。

蚊がモスキートなら蛾はモズギード?

(七月十日に、『蛾がどこかにいってしまって』という詩を朗読する
るための通路のつもりでこれを綴りましたが、蚊が変わり、気が
変わり、声にするのはやめて、ユリイ蚊の背中にそっと載せます。
最後の一行は自作の詩より)
「ユリイカ」8月号


 《鏡を曲がる空に高く。》

                          海埜今日子

みちのながいじゅっかいだった。そらがあふれ、べつのくうはくが
みえかくれする。かがみのなかにちずをめぐろう。かつてなら、た
しかにしぐさをふさいでいたと、あおざめて、のばしたゆびさきに
おもいをながす。はばのうすいさせつでした。はねかえって、とぎ
れません。このままながめようと、かがみのそとで、おもいがわか
れた。からだがこころにねつをおび、べつのけいかんをたちつくす。
ちずがうつむき、とけだすきじゅつだ。そのごご、いたたまれず、
でぐちをちじょうにまねいたという。まうように、ながしこむよう
に、そらのほうこうをどこでたずねる?
 「ひとづてに、のように、とつぜんのあかるさに、それでもくうは
くをひたしてみるの。ぬれないまま、でぐちをふるえる。このあた
りなら、きたことがある、すこしゆけばかがみもまたぐ。いないま
まに、かわぎしです。そらをとざした、させつです」

みちのつんざくせいじゃくだった。かわもがゆれ、べつのしずけさ
がからまっていた。かがみにほこりがどんつうのよう、きずつけぬ
ように、どこをだまろう? なまりいろの、このままながめていよ
うと、はもんをぬぐった。かわきがどこまでもふゆうする。ちずを
ふやかすたゆたいです、とおりすがりのたしかさです。とどけばよ
かった、ますますみうしない、またくっつける。からだのねつだけ
がゆききして、かえってきた。いつかなら、くうはくをだれかにう
めるかもしれなかった。あしたのひがおちはじめている。そらはど
こまでもしたたり、ここまできっとぬれなかった。だまることがこ
たえだろうか。おもいをはなして、とぎれたくない。
 「ひとづてのまま、こころにどしんと、あたってみるの。ふいをつ
けば、たましいぶんだけ、ぬけでるかもしれないから。かわいたこ
うさが、あとをたたない、ちずをみてもあいたかった。はもんだっ
たら、つたわりますか。いたことがあるけいかんです、きたことの
ないうせつです。あ、あたたかい」

みちをたむけたじゅっかいでした。あおがこぼれ、はじけるので、
とどまるかがみ。われていた、おもいをきっともどりませんか。ち
ずのあいだをぬぐえません。きのうをみあげ、でいりぐちに、たく
すようにゆびをあてる。こころがからだをどこかでまがり、みしっ
たけしきに、とぎれません、きいたことが。はばのちいさなしぐさ
です。なまりいろ、だからこそしみるのです。ねつをさしだすよう
に、きじゅつのさきからうかいする。かわもをてらすごごによせ、
くうはくもしずかにそまるといい。おもいがながれ、ちずがなみう
ち、またかわいた。ゆびをあわせ、うすまったので、のばせばいい。
そらのほうこうに、どこかでたれたこうべがあつい。
「ひとづてに、ねつがとってもさしだされたの。くらくなり、ちい
さなしめりけが、みおぼえがあると、こころをはねた。すこしゆけ
ば、かがみのひんやりくもるから、ひさしぶり、でむかえなければ。
きっとかわぎしにて、つたってくる、あおくたかいかどをまがろう」


善魔論
辺見庸

海市。わたしは終わった。あなたも終わっている。わたし
たちはもう終わっているのだ。とうに尽きはてている。な
のに、いじましく引きのばされている。果てない谺のよう
に。いつまでも引きのばされる谺に、善も悪もありはしな
い。あるとすれば虚だけだ。すべての事後に、わたしたち
は虚数として生かされている。もう終わった声(谺)を聞
かされ、もう終わった光景(海市)を見せられて。
すべての事後に、神が死んだのではない。すべての事後の
虚に、悪魔がついに死にたえたのだ。

クレマチス。いまさら暗れまどうな。善というなら善、悪
というなら悪なのである。それでよい。夕まし、浜辺でま
すます青む一輪の花。もう暗れまどうことはない。あれが
クレマチスというならクレマチス。いや、テッセンという
ならテッセンでもよい。問題は、夕まぐれにほのかに揺れ
て、青をしたたらせるあの花のために、ただそれだけのた
めに、他を殺せるか、みずからを殺せるか、だ。

譫言。日ごと夜ごと、うわごと、たわごとを発せよ。どの
みち善魔にしきられる。
・・・・詩文集『生首』3月


光うち震える岸へ(抄)
高柳誠

 03
新しい土地は、まず匂いとして立ち現れる。空港ごとに固
有の匂いを発している。いや、発しているというより、そ
れは、隠された属性なのだ。土地は、実は、匂いからでき
ている。しかしながら、その土地の人間は、匂いに同化し
ていて意識することさえない。ただ、異邦人だけが、敏感
にその匂いを感じ取る。だが、それも一瞬のことに過ぎな
くて、直ちに、その圧倒的な匂いに包まれ、全身を絡め取
られてしまう。その土地に降り立った時の一瞬の匂いを逃
さないこと。土地の本質をつかむ方法はこれしかないだろ
う。
 54
光あふれる空から、突然、雨が円形闘技場に走り込む。青
空が一面に広がり、薄い雲がわずかに漂うだけなのに、雨
は舞いながら落ちてくる。雨と光の戯れ。天気雨は、結晶
のようにきらきら光りながら、円形闘技場の花崗岩を濡ら
す。花崗岩は、雨と光の連合軍をさりげなく受げ止め、古
代からの密約どおりといった慣れきった自然さで己の役割
を果たし、また、元の予定調和的な秩序へと回復させて、
なにくわぬ顔でたたずんでいる。だが、一変した空気はさ
わやかな水分を含みこみ、光と水の戯れの余韻を今も漂わ
せている。
 78
夕日が城壁を照らし出し、その反照のなかですべてが移ろ
ってゆく。刻々変化してゆく夕暮れの光の移ろいのうち
に、事物の影たちが、一日の義務を終えておもむろに収斂
してゆく。長い年月にわたる古都の時々による変遷も、夕
暮れが生み出すいくっもの光の層とそれぞれ密かに通底し
あって、移ろいのなかでたゆたっている。すべてが夕暮れ
の移ろいのなかにある。戯れ、漂うすべての事物の影は、
様々な相貌を一瞬見せ、夕暮れの光がうち震える岸へ寄せ
てゆく。やがて、闇がすべてを包みこむ新たな夜が、静か
に古都にしのび寄る。
……詩集「光うち震える岸へ」






「縊死であること」

谷和幸

いつものわんこにあいに(あなたはこのみちす
じをわたしのエキゾーストマニホールドとシニカ
ルに言ったよね)、ふりかかるずじょうのひ
かりの枠にお尻をうかせている。ネオン管か
ら蜩のししむらをききわけるのもわたしのげ
びたむかしのならいです。これって時間の経った
ヌードルのように耳にぷつんときもちいいです
よね。ぷつんと、そのあとのチンモクはながいけ
ど記憶からかききえるから、すぐにぷつんと続
くんですって。ていゆって、言うか、フォーラムが
みずびたしで、ながされる永造くんもたちまち
消えるみちすじなんです。これもちゅうしょうげ
いじゅつですね、ってだれか(わたしのからだにき
せいするバグのせいで)が言ってた。つまりはわたし
はどじょうのわんこです。5フロアーに書店があっ
て、くびすじがいたくなるまで立ち読みしたコロが
あって、買えなかったホンとまたであえるのもこの
みちすじです。だれが何と言おうとホンとにホンと。
いやホンでなく、あのジカンを忘れたからぷつんと
そうです。お店の奥に恋愛小説家のわんこがいて、
ひえたぷつんの栓をぬいてくれますよ。



Home
11-24 Amida 1-choume Takasago-city,Hyougo-pref 676-0815 Japan
Phone/Fax:079-447-3652 Mobile:080-5311-6265
〈takatani_kk@yahoo.co.jp〉 http://cafeecri.web.fc2.com/


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

sendasosuke

Author:sendasosuke
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。