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カフェ・エクリVOL.41 詩の森の散歩道 谷和幸 9月12日に日程変更します

カフェ・エクリ  VOL.41


谷和幸

詩の森の散歩道
於 ガレリア 2011.9.5

堅実な末路というのは、赤いカンナの花言葉である


ecri41.jpg

はじめにご報告から

 先日から二つの詩の会に出席した、そのご報告から。初めに詩人の木澤豊さんの主催する「渚の会」に大阪の新今宮まで出かけていった。不思議な活気のある町で、側溝のくらがりからも、ビルの陰のわずかな隙間からもなんとなく人の気配がして、それが強烈な人間のエネルギーを発散しているようだった。店先に陳列してあるお惣菜や、インスタント食品の派手な色相も他のどんな街で見かけるよりも人間の毒の部分がにおい、あやしく光を放っていた。今回は木澤さんとお会いするのが初めてである。詩の座談会「渚の会」でどのようなお話をされるのだろうかと、あれやこれやと想像をめぐらす以前にこの町に自分が乗っ取られるような印象を受けた。
 会場はビジネスホテル?で、一階に受付と奥の浴場へと続くところに脱衣場があり、その反対側の透明ガラスで仕切られた会議室であった。おそらく利用者は昼の時間帯のこのホテルにいないのだろう。不思議な静けさに包まれていた。
 出席者は、主催者の木澤豊さん、白石守さん、五十嵐節子さん、にしもとめぐみさん、西森美智子さんと私の6人で、座談会の人数としては最適な人数だった。宿題の連詩を木澤さんの感想を中心に意見を交換していく。五十嵐さんの「窓あけてんか」と「窓辺の蜃気楼」のテーマは同じものだが書き方の違う作品。私はこのような試みが初めてだったので驚きを隠せない。大阪弁を使った柔らかい表現に抒情を裏に秘めた作品と、体言止め、漢字を効果的に使った作品。個人的には大阪弁の作品が好きだった。にしもとめぐみさんの「後ろ姿」。この詩の中の人はどこか疲れていて、それがなぜだか分からないのだが(……分からせようとは作者がしない……)、その文体の音楽性で作り上げられた詩という印象。「この人は詩の言葉(音楽)を待っている」と木澤さんの感想はなるほどと思わせた。西村美智子さんの「物と現象」。前回の木澤詩の返詩なので、元が想像できないままこの詩を読んだ。ずいぶんすてきなフレーズがちりばめられているが、意味として読もうとする欲求がおこりフレーズと格闘することになる。「白シャツが揺れて起こした風よ/あの人が寂しがっているから/帰るだけなのだ」はすばらしい。白石守さんの「N島にて」。このタイトルの隠匿性がつぎつぎに様々な連想をおこさせる。「排水溝のパイプにはめられた軍手」をめぐって、木澤さんの日常に何気なく見て、よく知ってるつもりのもののなかには、想像を超えたその実態があると鋭い指摘に思わず私も絶句。「……言葉は/ステイックのりの先端のように/零れ落ちる」はいいフレーズだった。2時間ほどで終了。折から激しい雷雨に降られ、それが小降りに変った間に二次会の飲み屋に駆け込む。その道中のタクシー内で「(座談会の)沈黙は大切に、それは沈黙ではないよ」と言われたことがすごいなと思った。この大きなキャリアを持つ詩人から、詩句を巡って二元論を超えた深い洞察に多くの感銘を受けた。そして、別れ際に「次も必ずおいでよ」とうれしい言葉をいただいた。
 二つ目は山田兼士さんの大阪文学学校の特別講座に参加。宿題の課題詩「こどもの詩」があり、私の拙い作品を携えて行った。講演は谷川俊太郎のこどもの詩を巡って山田教授の研究から、谷川の中でどの時期から「こどもの詩」が意識されて書き出されたかと具体的な事例で証明された。曰く「これからはこどの詩になるだろう」。そして、現在も現役で活躍中の70歳代の詩人がたくさんいらして、彼らが「こどもの詩」を書きだしたら、詩の世界も一変するだろう。等々の、教育的(啓蒙的)な話がぽんぽんと飛び出した。もしかすると、作者である「わたし」の性別も年齢もほぼ0歳からの視点で、詩が書かれる時代が来るのかもしれないと思った。その後一四人の作品をパワフルに批評。予定の時間を三〇分超過して終了した。

吉野弘『詩のすすめ』より  3 意味の揺れ・再説

 即死場所

 崖っぷちに「即死場所」という立札があった。自動車が何台か転落したところだそうで、谷底に落ちたら、先ず助かる見込みのないようなところだった。私は背筋に冷たいものをおぼえてそこを離れた――
 これは、ある人の紀行文の一節であるが、私は、これを読んで「惜しいな」と思った。私だったら、これを「即、死場所」と読む。この危険な崖の上に限らず、人間はどこにいても、其の所が死場所なのである。今生きている場所が、すぐさま死場所に変ずる可能性を誰でもが持っているのである。常住死場所というわけである。そこまで気付いて背筋に冷たいものを覚えてくれたのなら、私は、この紀行文の筝者の名を記憶したにちがいないが、おぼえていないところをみると、よほど失望したものらしい。
 
保革油                         
 「○○―知事選、保革の一騎打ち」という大見出しを、新聞で見つけた。もちろん、これは、保守と革新との一騎打ちのことだが、保革油というものがある限りは、保守と革新は不仲の夫婦のように争いながら、お互いを必要とし、相互依存を続けてゆくだろうと、私は思った。やりきれない気がした。どんな時代も、保革油を必要としているのかもしれない。
 
閉会
 フロイドは「精神分析人門」というすばらしい著書の中で間違いと夢の息味について精緻きわまりない考察を展開しているが、間違いのひとつである「言い間違い」について、こんな例を挙げて、人間の潜在意識を衝いている。
 議長が開院式の演説で「直ちに閉会を宣します」と言い違えた。議長は与党の党員であったが、時の情勢が与党に不利であったので、議会をなるべく早く閉じるほうが好都合だったのである。
 こんな例もある。
 カカア天下として悪名高い或る夫人が、夫の健康について医師に相談し、食事についての注意を求めた。夫人がその結巣を友人に報告して曰く「夫は私の好きな物を食べればいいのです」。医師は、単に、「好きな物を食べればいい」と言ったのに、夫人はそれを「私の好きなもの」と受けとった。「夫は、私の好きなものならば何でも食べます。夫の食物の嗜好一切は、わたし次第できまります」というのが真意だったわけ。
 また、こんな例もある。
 ある青年が、見知らぬ娘にbegleitdigen(ベグライトーゲン)しようと申し出た。これは、begleiten(ベグライテン)(お供する)
という言偏とbeleidigen(ベライディーゲン)(凌辱する)という言葉の入りまじったものだという。青年は「お伴しましょう」と言ったつもりであったが、真意は別のところにかくれていたのである。
 言い間違いが、人間の潜在意識の微妙な噴出だということを示した幾つかの例である。私はフロイドを通じて、言葉というものに深く触れ得たと思う。
 
心の縄
 フランシス・ジャム(一八六八~一九三八)の詩に「私は驢馬が好きだ……」という作品がある。ちょっと艮い詩なので全部を引用するわけにはゆかないが、その中の或る詩句に触発されて詩を書いたことがある。どんなふうに触発されたかを述べてみたいので、まずジャムの詩の一部を引いてみる。

驢馬は気の毒なほど
沢山な仕事をした
少女(おとめ)よ お前は何を食べたか?
お前は桜(さくら)実(んぼ)を食べたでせう。

驢馬は燕麦(からすむぎ)は食べなかった
飼主か貧しいので。

驢馬は古縄をしゃぶって
暗い隅へ行って寝てしまった。

お前の心の縄には 少女よ
こんなに味はない。
(堀口大學訳)
 
 フランシス・ジャムはカソリック教徒であり、詩の中で層々(そうそう)、神をうたっているが、私はその多くの詩を通じて、ジャムの心の中にある神は、この世に存在するものすべての根拠であるらしいということに、徐々に共感するようになっていた。丁度そのような時に、ここに引いた詩に触れ、その共鳴は一層強いものになった。
 終りの二つの連に〈驢馬は古縄をしゃぶって〉という詩句と、〈お前の心の縄には……〉という詩句がある。この〈古縄〉と、少女の〈心の縄〉のイメージが私に強く働きかけてきた。
 古繩をしゃぶる驢馬のイメージが、次の詩句を読む人の想像の助けとなっており、少女もまた。その心の縄をしゃぶるように生まれついていることが自然に納得される。只、少女はまだ幼いために、自分の心の縄をしみじみとしゃぶったことがなく、したがって、繩縄の味も驢馬ほどには知っていない、まあ、無理もないことだが……というふうにジャムの目に見られている。
 しかし、少女の心の縄は、少女自身気付いていると否とに拘わらず、窮極者である神に結ばれている。もちろん、驢馬のしゃぶっている古縄のきれはしも神に結ばれている。驢馬のしゃぷっているのは、単なる古縄ではなくて、神とのなつかしい「関係」なのである。それをジャムは、神と自分との間柄にダブらせて、少女に語りかけ、驢馬をいとおしんでいるのである。
 文章にすると、こんなふうにくどくなるけれども、こうしたことが、殆ど理屈ぬきに、瞬間的に私の心に感じとられたわけである。
 もし、私のような理解がひどい誤りでないならば、私はフランシス・ジャムの心の中にとらえられている神を、ほぼ原形通りにとらえたのだと思う。
 この詩の中でジャムは神について何も述べてはいないが、驢馬のしゃぶっている古縄のずーつと先に神がいらっしゃること、少女の心の縄の先端に神がいらっしゃること、すベて存在するものたちの間には、孤立ではなく、或る結ばれた関係があること、神とはその関係の窮極であることなどを、ジャムは暗示していると思う。このようにして出来あがったのが、私の次の詩である。古縄をしゃぶっている驢馬を、手綱をしゃぶっている驢馬に変えたのは、神とのつながりを強調するには、古縄のきれはしより、驢馬に結ばれている手綱のほうが私の詩の情景には適していると考えたためである。
 その手綱をしゃぶっている驢馬の姿を見てジャムが、神と結ばれている安らぎの味を驢馬が知っていることに感嘆するように仕組んだ。終りに〈古い縄で/大方かえりみられない味だが〉と結んだのは、今日では、神を存在の窮極的根拠として感受できる人が大変に少なくなったことを、述べたかったのである。人間がエゴイズムから解き放たれるためには人間存在を相対化する視点と思想がなければならず、そのためには、人間を超える絶対者がなけれぱならないという思想が必要な筈である。しかし、そのことをほんとうに知る人はまことに少ないことを、私の考えとして述べたものである。

フランシス・ジャム先生

一日の終り
小屋につながれた驢馬。

驢馬は気の毒な程
沢山の仕事をした。

驢馬は燕麦を食べなかった
飼主が貧しいので。

敷藁の上に膝を折り驢馬はゆっくり
縄の手綱をしゃぶる。

通りかかって
小屋をのぞいたジャム先生が
胸をうたれて言うことには
「ああわかるんだね 繩の味が!」

ジャム先生も縄をしゃぶる
神さまとの繋縛をしゃぶる。

古い縄で
大方かえりみられない味だが。

 お気付きになった方もおられるだろうか、私の詩の第二連と第三連は、ジャムの詩を、ほんのわずかの助詞を変えただけで、そのまま借用している。一種の本歌取りの趣向だが、本質的に取った部分は、もちろん、心の縄のイメージである。
 
堅実な末路
 堅実な末路というのは、赤いカンナの花言葉である(これは実の堅固な印象から来ているものと思われる)。黄色いカンナの花言葉は「永続き」であるが、色のちがいで、二つの花言葉をつくることもなかろう。「永続き」よりは、「堅実な末路」のほうが、はるかに魅力がある。
 さて、「堅実な末路」という言葉は、なんとも奇妙な気分を与える言葉である。普通、「末路」(マツロ)というと、その上に「不幸な」とか「悲惨な」とかいう形容語を持ってきたくなる。ところが「堅実な末路」なのである。「堅実な」というのであれば、その下に「晩年」とか「終焉」とかいう言葉を持ってくればよさそうなのにと思う。
 ところが、「不幸な末路」「悲惨な末路」では当り前すぎて、想像力が刺戟を一向に受けないし、「堅実な晩年」「堅実な柊焉」でも、同じように、言葉の面白さがないのである。
 それならば、なぜ「堅実な末路」が、人の気分を乱すのかというと、「堅実」という優等生的計画性と、「末路」(落ちぷれ零落した、なれの果て)という敗残者的な印象とが、互いに背反し桔抗し、安定したイメージを結ぼうとしないからである。「末路」を「晩年」程度のおだやかなニュアンスで屈服させたいのに、逆に「末路」は、悲劇的なイメージを貫徹したいために、「堅実な」を「悲惨な」に変えてしまいたいのである。 
 にもかかわらず、その試みは、この言葉の結合状態の中では、無理なのである。だからこの花言葉は、「堅実な」に力点を置くか、「末路」に力点を置くかによって、カンナのイメージは、どちらにでも揺れ動くのである。
 その点に私は興味をおぼえ、この二つの性質を一つの詩の中にとじこめてみようと試みた。それが次の詩である。成否は私のあげつらうところでない。読者に一任するはかない。

カンナ・花言言「堅実な末路

脱ぎ捨てられた緋色のナイトガウンみたいに
カンナの花びらが地面に落ちている
うっすらと泥にまみれて

透明なカンナ夫人は
美しい花びらを脱いで
どこへ行ったのだろう

貞淑な夜を愛されて
朝な朝な ぼんやり窓際に立ち
眺めていたのは どんな世間だったのか

肩からすべり落ちそうな花びらの衿を合わせ
身にふりかかる暗い招きに戦(おのの)いていた
あの夫人が 今朝はいない

スキャンダルの匂いを
漂わせて
突然 どこへ姿を消したのか

過ぐる長い夏は堅実な日々だった
その証拠みたいな正嫡(せいちゃく)の実が
茎の先にいくっかふくらんでいる

過剰な安逸と寝苦しい幸福から
ふらりと迷い出て
夫人はどこへ紛れこんだのだろう

青いつぶらな堅固な実の
確かな未来を
まるで過ちのように淋しく置き去りにして

吉野弘詩集から掲載

幻・方法

男が言いました。
空の奥に
小さな椅子が
一列にあらわれ
遠くのほうへ消えていったと。

人々が思いました。
人に値いしない椅子が
空にあることは確かだ
人がそれほど高貴であったことも
高貴であり得ることもないからと。

異端の末裔が思いました。
一度公認された幻の威力は絶大で
そのとき以来の
人々のつつましさは
幾千年の尾をひいている
だが その功罪よりは
男の方法が注日に値いする
男は見た通りを語ったとしても
信じていたことを幻に見たにすぎぬ
男が信念を幻に変え
人々が幻を信じた
そのいきさつは確かなのだから
これらは明らかに
幻に対する挑戦の方法をも
教えるものだ
つまり
おのれの信念を幻に成熟せしめ得た者
のみが
手袋を投げ得るということだ。

音楽
 
友人にダンスを教えて居ると友人が言う。相手の足の運びにこちらの足を合わすのだな。 そうだと言いたいところだが さに非ず。音楽にだよ。二人は共に 音楽に足を与えるべし 音楽に。
 音楽なしで夫婦はうまくやれるわけがないのに 二人は日常 随分無理をして居る。ダンスよりずっと調和のとりにくい二人の心を 音楽なしで調和させようと苦しんで居る。相手の心の動きに追従するのは真の調和を得る方法ではない。二人の心は一つの音楽を聞き 音楽に 共に心を与えるぺきだ音楽に。
 音楽が既に出来て居ていつでも二人の耳に入るようになって居るとは限らない。それは時に 幻聴のように存在することがある。必要な音楽ほど呼び出しにくいのだ。
 グスタアフ・ラアトブルフという人が 共同体の在り様に就いて斯う述べている。
 ――共同体とは 人間の人間に対する直接の関係ではなくて 共通の戦い 共通の仕事 共通の作品を通じての結合である。――
 これは 殊に労働者が聞くべき音楽の原型。この音楽も矢張り呼び出しにくいのだ。

名付けようのない季節

「たそがれの国」という詩の中で
D・H・ロレンスが言っている。
「アメリカよ
どうしてぽくの魂をもだまさないのか」と。

人間の手や足や 智識や服従心を
利用することはやさしい。
人間の全部を用いることがむずかしいのだ。
人間の全部を用いる力が
アメリカにはないことを
ロレンスは見彼いて悲しんだのだ。

さて 廿世紀の後半に生きるぽくらは
何に 悔いなく魂をやっていいのか。

冬枯れのこずえに うっすらと縁が走り
樹木がそのすべてを
少しのためらいもなく
春にゆだねようとしているのを見ると
そのすばらしさに胸をうたれる。
そして気付く.ぽくらの季節が
あまりにも樹木の季節と違うことに。

たそがれ

他人の時間を小作する者が
おのれに帰ろうとする
時刻だ。

他人の時間を耕す者が
おのれの時間の耕し方について
考えようとする
時刻だ。

荒れはてたおのれを
思い出す
時刻だ。

臍(ほぞ)を噛む
時刻だ。

他人の時間を耕す者が
おのれの時間を耕さねばならぬと
心に思う
時刻だ。

そうして
納屋の隅の
光の失せた鍬を
思い出す
時刻だ。

山高帽
 
男が山高帽をかぶり 草のまばらな堤の斜面に腰を下ろしていた。珍らしいこともあるものだ。僕は男の傍に腰を下ろし 山高帽を借りてかぶった。当今は帽子をかぶることも少くなりました 帽子の内面的な気位の高さに価いするよう努めるのは仲々大変でしょう。 話しかけて 僕は男の深い疲れに気がついた。
 今更どうして 帽子を男に返せよう。僕は十年後の僕自身と並んでいたのだ。
 僕は立ちあがり 帽子をかぶったまま一人で街へ歩いた。怖い帽子。僕は帽子を脱いで道の濠の水へそっと捨てた。



あまりに明るく
すべてが見えすぎる昼。
かえって
みずからを無(な)みするものが
空にはある。

有能であるよりほかに
ありようのない
サラリーマンの一人は
職場で
心を
無用な心を
昼の星のようにかくして
一日を耐える。

犬とサラリーマン

 また来た。
ビスケットを投げたが やりぱり食わない。黙って僕を見つめている。

 初めて来たとき 魚の骨を投げた。食わなかった。そのあと 来るたびに 何かを投げたが 一度も食わなかった。

やせた黒い犬だ。鑑札もない。愛想もない。食わない。そのくせ毎日のように 台所へ顔を出すのだ。

 僕は しぴれをきらしていた.なんとか言って貰いたかった。
 ふと
僕はそれまでの 思いあがったほどこしが悔やまれた。

 その夜 僕は黒い犬と一緒にいた。僕は犬に何も与えず犬も欲しがらず 黙って一緒に居た。星が美しく 犬の眼がやさしかった。それ以上に僕の眼がやさしかたのかも知れない。

 しばらくして 犬は 飼犬の経験を話そうかと言ったが そうすれば 僕はサラリーマンの経験を話さねばならないだろうし 身の上を慰さめ合うのはつらいから よそう と僕は答えた。

そんな淋しい夢を抱えて 僕は翌朝 いつもの道を出勤した。









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